秋海棠
ふたり、足を踏み入れた山は紅葉にはまだ早かった。
泰明はゆっくりと草を踏み分け、一つ一つの木の幹に語り掛けるように触れながら歩を進めている。
時折、長い睫を伏せては、木々の声なき声に耳を傾けている様は、見惚れるほどに綺麗だったが、
ふたりきりになりたくて泰明を連れ出したイノリとしては、少々面白くない。
手持ち無沙汰に、周囲を見回して、ふと少し離れた木陰に淡い紅色の花が群れ咲いているのが見えた。
駆け出して近くに寄ってみると、こうした目立たない場所には不似合いなほど綺麗な花だ。
「泰明!」
イノリはその花を幾つか摘んで、名を呼ばれて顔を上げた泰明の元へ駆け戻る。
「ほら!」
花のひと房を右耳の上で綺麗に纏められているのが乱れないよう注意しながら、髪に挿してやる。
「秋海棠か」
イノリの手にある薄紅色の花を首を傾げるように眺めて、泰明が言う。
その小さな動きに合わせて、彼の翠の髪に挿した長い茎の先に垂れ下がる小花がしゃらしゃらと揺れる。
結われた長い髪も、心地よい音を立てながらゆっくりと華奢な肩から滑り落ちた。
「さっきそこで見付けたんだ!綺麗だよな!!何て言うか…
菩薩さまが頭とかに飾ってる、瓔珞(ようらく)…っての?それみたいだよな!!」
言いながら、瓔珞のような花よりも何よりも、それを飾った泰明の方が綺麗だと思う。
「確かに、自然から出ずるものはすべからく美しい」
差し出された残りの花を、ありがとうと言って受け取った泰明が淡く微笑む。
この薄紅の花のように控えめで、綺麗な笑み。
「………」
再び目を伏せて、今度は花の声に耳を傾ける彼の姿に、イノリは知らず息を呑む。
それは、ここにはいない誰かに想いを馳せているようにも見え、ふいに、胸が痛んだ。
自然に抱かれ、幸せそうに微笑む泰明が、綺麗に見えれば見えるほど、何故だか遠く感じてしまう。
そうして、ずっと訊きたくて訊けないでいる言葉を今日も呑み込む。
その瞳には今、誰の姿が映っているのか。
そこに…自分はいないのだろうか。
秋海棠(別名:瓔珞草)の花言葉:片想い
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