撫子
秋の野辺をひとり歩く。
ふと、傍らに咲く淡紅色の花が目を惹いた。
小さく、花弁の縁の細やかな透かし模様も美しく可憐な撫子の花。
つい微笑んで立ち止まる。
そっと手を伸ばし、触れようとしたところで、己の無骨な手では、
花を傷付けてしまいそうな気がして、伸ばした手を引く。
いつも、こんな風に危うい気持ちになって触れることを躊躇ってしまうひとのことを思い出す。
この花のように可憐で、壊れそうに美しいひと。
焦がれる思いのままに、その名を呟く。
「泰明殿…」
「呼んだか?」
ふいに、すぐ後ろから応えがあって、頼久は飛び上がった。
「や、泰明殿!」
振り向くと、武士としての鍛錬を日々積んでいる頼久でさえ、気配の読めない陰陽師の姿があった。
彼は怪訝そうにすんなりとした首を傾げる。
「何を驚く?」
「い、いえ…己の修行不足を痛感しただけですので」
「?良く分からない」
「はあ…」
一瞬の沈黙。
彼への想いはいつも胸に溢れんばかりなのに、こうして本人を目の前にすると、
その熱い想いを一つも言葉にすることが出来ない。
「泰明殿はどうしてここへ…?」
内心溜め息を付きながら、当り障りのない質問をすると、生真面目な応えが返る。
「祓いの仕事の帰りに通っただけだ」
「そうですか、祓いの方はつつがなく?」
「無論」
その怜悧な無表情を見て、改めて彼が優秀な陰陽師であることを思い出す。
また、彼は呪術だけでなく、体術も相当使える筈である。
そのようなひとを相手に、何故自分は壊してしまうなどという不安に駆られてしまうのだろうか。
そんな風に思うことは泰明にとって却って無礼なことではないだろうか。
頼久が沈思している間、ついと視線を動かした泰明が、頼久の手元を見て、人形のような無表情を僅かに緩ませた。
花が綻ぶように自然に柔らかくなった表情が突如目に入って、頼久は我に帰る。
仄かな笑顔に半分見惚れながら、己の手元を見遣ると、そこには先程触れようとした撫子の花。
「ここを幾度か通ったことはあるが、こうして改めて花や辺りの景色を見ていると、己の気が落ち着いていくようだな」
泰明はそう言って、頼久を見た。
「お前といるときと似ている」
「え…」
勿体無いほどの言葉に、一瞬で頭に血が上る。
硬直していると、泰明が今度は頼久の指に目を止め、二度三度と瞬いた。
「頼久、指に傷が出来ている」
どうやら、動揺している間に指を草で切ったらしい。
「今は薬草の持ち合わせがないのだが…」
言いながら、泰明がす、と近付いてくる。
「いえ、掠り傷ですので。お気になさら…ず……!!」
傷付いた指を柔らかな唇に含まれ、頼久の言葉は不自然に途切れた。
「…?!〜〜〜っ…!!」
「こうしておけば、程なく血は止まるだろう。どうした頼久、顔が赤いぞ」
無邪気で大胆な想い人の言動に、動揺の頂点に達した頼久は問いに応える術を持たなかった。
撫子の花言葉:可憐・無邪気・大胆(笑)
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