王の宝珠 1
厚いカーテンの隙間から眩しい朝の光が差し込む。
絨毯の敷かれた広い部屋。
その窓際の床のほんの一部を切り取る光。
まるでその光の気配に気付いたかのように、天蓋付きのベッドに横たわる華奢な人影が身じろいだ。
煙る霧のように淡い紗の帳がさらりと微かに揺れる。
同時に、シーツの上に拡がる絹糸のような髪が緩やかにうねり、水のようにさらさらとささやかな音を立てて流れた。
そして、長い睫が僅かに震え、磨かれた象牙のように滑らかな薄い瞼がゆっくりと持ち上がる。
柔らかなシーツに、細い手を突いて起き上がったその人物は、ベッドを滑るように下りて、窓際へと向かった。
厚いカーテンを開くと、拡がる光に導かれるように、大きな窓を開き、続くバルコニーへと素足のまま出る。
半円形の白い大理石のバルコニーは、陽光を受けて、更に眩く輝いている。
そして、その向こうには、瑠璃色の海が波間を銀色に煌かせながら、拡がっていた。
バルコニーの手摺に手を置き、華奢な細身をやや乗り出すようにして、海に見入るそのひともまた、白い陽光を浴びて、輝いている。
海から吹き上げてくる爽やかな風に、腰を過ぎるほど長い翡翠色の髪が翻り、その流れを追うように、幾つもの光が滑り降りる。
光を弾く真珠色の肌。
翡翠色の睫に縁取られ、光を抱くように煌く翡翠と黄玉の左右色違いの瞳。
僅かに開かれた珊瑚色の柔らかな唇。
ほっそりとした体躯に纏ったゆったりとした白い寝巻きの長い裾が、風を孕んで翻る。
磨き上げた選りすぐりの宝珠を集めて、特別美しく拵えられた人形のような姿だった。
ただ、生気に満ちた輝く瞳が、この人物が生身であることを証明していたが、夢幻のような浮世離れした印象は拭えない。
そのひとの澄んだ瞳がふと瞬きをし、振り返る。
同時に、部屋の扉がノックされ、開いた。
「失礼致します、泰明様…お目覚めでしたか」
そう言葉を掛けながら、黒い服を纏った背の高い男が、洗面具や櫛を携えた侍女を従えて入ってくる。
浅黒い肌に短く刈り込んだ銀の髪、厳しく整った男らしい容貌に、口髭を生やしている。
右目の黒い眼帯が、この人物を更に厳しく見せているが、残る左の青い眼には穏やかな知性の光が宿っていた。
呼び掛けられた部屋の主、泰明は応えるように、バルコニーから部屋の中に戻る。
促されるまま、鏡台の前の椅子に腰掛けると、男の指示で、侍女たちが動き出す。
顔を洗い、櫛を通さずとも、絡まりなく流れる艶やかな髪を更に丹念に梳る。
やがて、使い終わった洗面具と櫛を持った侍女が下がり、入れ替わるように衣裳を携えた侍女が部屋へと入ってくる。
「さあ、泰明様。こちらにお召し替えを」
差し出されたのは、虹色の煌きを放つ絹のドレスだ。
それまでは、なされるままだった泰明がそこで初めて、怪訝そうな顔をしてドレスを見、口を開いた。
「…イクティダール」
「何で御座いましょう?」
泰明はドレスと、目の前にいる男が纏っている黒い服、そして、侍女の地味ではあるが、
裾の長いスカートを纏った装いを順に見ながら、言葉を紡ぐ。
「この衣裳は女が纏うものではないのか?本来なら、私はお前の纏っているような物を着るべきなのではないかと思うのだが」
最初のうちは、言われるがままに差し出されたものを身に着けていたが、ここでの暮らしが長くなるにつれて、不思議に思うようになった。
それに、裾を長く引くドレスよりも、イクティダールのような服の方が動き易そうだ。
そう言うと、イクティダールは僅かに苦笑した。
「陛下のお指図ですので」
その応えに、椅子に座ったままイクティダールを見上げていた泰明は、口を噤む。
そうして、椅子から立ち上がった。
「分かった、着替える」
拒絶するほどドレスが嫌な訳ではない。
しかし、疑問が消えた訳でもない。
華奢な首を僅かに傾げたまま、伸びてくる侍女の手に任せて着替え始めた泰明に、イクティダールは一礼する。
「お召し替えが済みましたら、また参ります」
「分かった」
泰明が頷くと、イクティダールは微笑して、さり気なく言葉を添えた。
「疑問に思われることがあるならば、直接陛下にお伺いになられては如何でしょうか」
泰明はきょとんと目を見開く。
「だが、このような他愛もないことを訊いても良いのだろうか?」
「どのように些細なことでも、貴方様に訊ねられたなら、陛下は喜ばれましょう」
確信に満ちたその言葉に、泰明の表情が明るくなる。
「そうか。では、そうする」
イクティダールはもう一度、一礼してから部屋を出て行った。
まるで、執事のような振る舞いだが、実のところ彼は執事ではない。
この城の、ひいてはこの国全体を統治する王の、最も信頼厚い宰相なのである。
生真面目な宰相は、その鍛えられた長身も手伝って、王ほどではないにせよ、時に外交相手さえも萎縮させる迫力がある。
しかし、泰明はイクティダールがそれほど苦手ではなかった。
彼がその外見とは裏腹の穏やかさと誠実さを持っていることに、すぐに気付いたからだ。
何より、泰明が信じている王が信頼している相手だ。
泰明が彼を信頼しない理由はない。
しかし、国の土台を担う宰相が何故、こうして、毎朝、泰明の元に召使いを引き連れて現れ、執事紛いの世話をするのか。
それには、この城内での泰明の立場が関係している。
正確には、王が定めた泰明の立場が。
着替えが終わり、侍女が退出して暫くすると、扉の向こうから慌しい気配が近付いてきた。
イクティダールだろうか。
常ならば、このように騒がしくやって来ることなどはないのだが。
訝しく思いながらも、泰明は腰掛けていた長椅子から立ち上がる。
さらりとドレスの裾が心地良い衣擦れの音を立てた。
と、同時に、ノックもなしに扉が開かれる。
大股に部屋に入ってきた人物に、泰明は大きな瞳を僅かに瞠る。
現れたのはこの国の王だ。
冷徹ではあるが、公平に国を治める賢王と名高い。
また、圧倒的な美貌でも名高い王であった。
氷のよう、と評される美貌が、泰明を認めて僅かに和らぐ。
「泰明」
「陛下!お待ち下さい!!
「何も陛下御自らお出ましになられなくとも…」
追い縋る側近らを手振りだけで黙らせると、王は金の髪を靡かせながら、流れるような動きで泰明の正面に立つ。
「迎えに来たぞ」
そう言って、泰明のほっそりとした手を取り、手の甲に口付ける。
そして、その手を捧げ持ったまま、青い瞳を細め、小さく笑った。
「どうした?どうやら、我が妃は御機嫌斜めのようだな」
「そういう訳ではない」
そう応えつつも、泰明は微かに細い眉を潜め、王を真っ直ぐに見上げた。
「少しは立場を弁えたらどうなのだ?アクラム。皆が困っている」
言いながら、泰明はアクラムの背後で、いたたまれない様子でいる側近らを見遣る。
この王は国を治める手腕は確かだが、気紛れめいた行動で、側近らを困らせることもしばしばあるのだ。
「これから、共に食事をする己の妃を迎えに来ただけだぞ。そのことに、どのような問題がある?」
少々大袈裟に目を見開いてみせ、そう返すと、アクラムは持っていた泰明の手を引いて、歩み出す。
側近らが慌てて動き、ふたりの後に付き随った。
「私は妃ではない」
素直にアクラムに手を預けながらも、事実はきちんと指摘しなければと、泰明はアクラムに言う。
「いずれそうなる」
しかし、アクラムは一向に意に介さない。
泰明は話を続けるべきか躊躇ったが、やがて小さく溜息を吐いて、無意味な会話を切り上げる。
この王の気紛れの最たるものは、幾ら美しいとはいえ、氏素性の知れない泰明のような者を、己の未来の妃に定めたことだろう。
「どうした?」
ふと、首を傾げた泰明に、アクラムが笑みを含んだ声音で問う。
食堂に辿り着くまでには、まだ距離がある。
そこで、泰明は先程の疑問をアクラムにぶつけてみることにした。
「今の妃という件にも関係していると思うのだが…私は女ではない」
「改まって何を言うかと思えば、そのようなことか」
今更だと呆れたように言うアクラムに、より不可解さが増した泰明は、再び綺麗に弧を描いた眉根を寄せる。
「では何故、私はこのような服を着なければならぬのだ?これは女の格好ではないか」
王に向かって臆することなく物を言う泰明に、背後に随う側近らが、落ち着かぬ様子で見守っている。
それに構うことなく、泰明は澄んだ瞳で真っ直ぐにアクラムを見詰めた。
と、アクラムが堪えきれぬように、小さな笑いを漏らす。
意外な反応に、泰明を除く全員が目を瞠った。
その眼差しを他所に、アクラムは泰明の問いに対する答えをあっさり口にした。
「似合うからだ」
「……」
「それにお前は厳密に言えば、男でもなかろう?」
「それはそうだが…」
「ならば、そう拘ることもない。似合うものを纏えば良い。妃の件についても同様だ」
「そうなのだろうか?」
泰明は未だ、釈然としない様子だ。
アクラムは微笑んで、引いていた泰明の手を軽く握った。
「お前に美しい衣を纏わせるのも、妃にするのも私の望みだ。お前には私の望みは不満か?」
そう問われては、泰明は首を振るしかない。
現在の己の境遇は不可解ではあるが、決して嫌なものではないのも確かだ。
「お前の望みなら私は構わぬ」
言って、ようやくふわりと花が開くように微笑んだ。
そうして、アクラムの手を軽く握り返し、ふたり肩を並べて厚い絨毯を敷かれた廊下を歩む。
泰明自身は全くの無自覚だが、その様は既にして、王の妃としての、気品に満ちていた。
生まれ持ってのものなのか、王の美貌と品格に負けていない。
何より、泰明をこの城に迎えてから、王の雰囲気が心なしか柔らかくなった。
それまでは国を治めることのみに心を傾けて、決して愉しむ様子を見せなかった王だ。
そんな王のことを考えれば、泰明の存在は、むしろ歓迎すべきことではないのか。
故に、素性が明らかではないのは気掛かりではあったが、王自身が選んだこの妃候補を、側近や重臣の殆どは認めていた。
だが、冷徹であると共に、苛烈な面も持ち合わせる王に、面と向かって意見はしないものの、
血統を絶対視し、泰明の存在に眉を顰める側近や重臣も確かにいるのだ。