王の宝珠 2
食事を終えると、アクラムは泰明を伴って、食堂の隣に設えられた休憩用の部屋へと誘った。
泰明の細い手を引き、正面にある大きな窓から続くバルコニーへと導く。
ここからも海が良く見えた。
流れるような動きで進み出た泰明は、バルコニーの手すりに手を置き、煌く瞳で海を見下ろす。
吹き上げる柔らかな風に、翡翠の髪が靡いた。
その狭間から、煌きを零す真珠の髪飾り。
飽きることなく、眼下の紺碧に見入る泰明に、アクラムは問う。
「海へ還りたいか?」
冷たい響きに、泰明は弾かれたように振り返る。
「そのようなことはない」
いかにも心外とばかりに、睫長い大きな瞳を瞠って、言葉を返した泰明に、アクラムは青い瞳を細め、皮肉気に微笑んでみせる。
「そうか?だが、その瞳に私ではなく、海ばかりを映されてはな」
私の傍にいるよりも、海に還りたいと願っているように見えても仕方あるまい?と言葉を継ぐ。
「還るか?私を残して」
「…っ!」
アクラムの意地悪い言葉に、泰明はますます澄んだ瞳を大きく見開いた。
「私はっ…確かに海ばかりを見ていた。海を見るのは懐かしくて、好きだから…しかし、還りたいと思って見ているのではない。私は…」
やや慌てた様子で言葉を紡いでいた泰明が、ふと、言葉を途切れさせた。
次いで、意気消沈した様子で、項垂れる。
「どうした?」
あまりにも儚げな風情に、意表を突かれたアクラムが問うと、泰明は俯いたまま、答える。
「私は自ら望み、また、お前に望まれてここにいる。だが…お前に望まれなくなったら、私はここにはいられなくなってしまう。
…お前はもう私に飽きたのだろうか?だから、そのようなことを言うのか…?」
ならば、海へ還る…と、小さな声で言うか言わないうちに、アクラムが泰明の手首を捉え、華奢な身体を引き寄せた。
「アクラム?」
怪訝そうな声を上げる泰明の身体を、アクラムは己の長い腕で包む。
「全く…私が何時、お前に飽きたなどと言った?」
「だが、「還るか」と…」
溜息交じりの言葉に答える淡々と澄んだ声音が、僅かに震えている。
アクラムは、抱き締める腕に、僅かに力を篭めた。
「ただの戯言だ。私がお前を手放す訳がなかろう?」
己がこの海の見えるバルコニーに連れ出しておきながら、
泰明が目を輝かせて、海に見入るものだから、つまらない嫉妬に駆られた、それだけのことだ。
しかし、己の余計な言葉が泰明を不安にさせたのは事実。
謝罪の代わりに、アクラムは滑らかな髪越しに、細い背中を宥めるように撫でた。
腕の中で、華奢な体躯が僅かに震え、安堵したような小さな吐息が耳に触れる。
やがて、泰明が顔を上げ、翡翠と黄玉の瞳でアクラムを見詰めて、微笑んだ。
綻んだ紅玉の唇に、アクラムは軽く口付ける。
真珠色の頬を仄かに色付かせて、はにかむ様が愛おしい。
その耳元、陽に透け、輝く翡翠の髪を、更に彩る真珠の髪飾りに、アクラムは指先で触れた。
「お前はこの髪飾りばかりをしているな。他にもっと手の込んだ細工が美しい髪飾りがあるだろうに」
望みのものがあれば、特別に誂えさせよう。
アクラムの言葉に、泰明は首を振る。
「私はこれがあれば良い。勿論、場に合わせて相応しいものを身に着けろと言うのならそうするが。私はこれが好きなのだ」
「知っている」
青い瞳を細めて、泰明の澄んだ瞳と間近で見詰め合う。
泰明は更に頬を上気させて、俯いた。
そう、この髪飾りはアクラムが初めて泰明に贈ったものだ。
まだ、泰明が「人」ではなかった頃に…
泰明は海に棲むセイレーンだった。
今はすんなりと伸びている二本の脚は、かつて虹色の鱗に覆われた魚の鰭であった。
美しい顔の半分に、封じの呪いを施すほど力ある精霊であった泰明。
船を沈めるセイレーンを悪として、アクラムは泰明を捕らえた。
が、彼の無垢な美しさと凛とした強さに接していくうちに、気付けば、アクラムの方が彼に捕らわれていた。
そんな泰明を手放し難く、己の船に留めていたアクラムだったが、元より人と精霊とでは生きる世界が違う。
泰明の仲間が、彼を取り戻そうとアクラムの船を襲撃するに到って、アクラムは泰明を海へ還した。
抜け殻になったような虚ろな心を抱えて。
しかし、そんなアクラムの元に、泰明は海を自由に泳ぎ回る鰭も、歌に呪力を込めて船を操る力をも捨ててやって来たのだ。
アクラムの秘めた願いを叶え、また、泰明自身の望みをも叶える為に。
真珠の髪飾りは、泰明をアクラムが己に船に留めていたときに、停泊した港の商人から買い取って贈ったものだ。
それを泰明は今も尚、大事に身に着けていた。
他には何もいらないと言って。
国王の次期妃として、どんな贅沢も思いのままの生活に置かれていても、泰明の純真さは変わらない。
その変わらない心身の美しさが、アクラムの心を捕らえて離さない所以でもあった。
「これが気に入りだというのなら、好きなだけ身に着けるが良い。似合っているからな」
そう言って、嬉しそうに微笑む泰明にもう一度口付けると、アクラムは彼を部屋まで送った。
朝の短いくつろぎの時間は終わり、アクラムは国主としての執務へと取り掛かった。
泰明は自室で暫し休み、それから、図書室へと向かう。
この図書室には膨大な書籍がある。
一日中いても、飽きることはない。
しかし、何故か、今日は書物の内容に集中することが出来なかった。
書物から顔を上げ、大きな窓へ首を動かす。
白い陽光にくっきりと切り取られた窓の向こう側に、朝と変わらず美しい空と海の一部が見えている。
「泰明様?」
側仕えの侍女が、泰明の様子に気付いて声を掛ける。
それに、泰明は何でもないと首を振った。
本当は、近くの海辺まで下りてみたいのだが、この辺りに砂浜はなく、ごつごつとした岩場ばかりがある。
慣れぬ者、ましてや裾長い衣服を纏っている侍女には危険極まりないだろう。
一人で行っても良いのだが、忠実な侍女は付いていくと言い張るに違いない。
そんな侍女を危険な目に合わせてまで、我を張るつもりはなかった。
泰明は再び書物に目を落とす。
が、やはり、集中できない。
「泰明様」
すると、侍女が柔らかな声で呼び掛ける。
「そちらのバルコニーで書物を御覧になっては如何でしょう?ちょうど良い木陰も御座いますし」
落ち着かない主人の様子を察していたのだろう、侍女の気遣いの言葉に、泰明は少し考える。
図書室のバルコニーは海ではなく、反対側の森に面している。
かなりの広さがあり、そこで読書も出来るよう、ゆったりとした長椅子が数脚設えられていた。
このまま屋内にいるよりも、外気に当たった方が、良い気分転換になるかもしれない。
そう思って泰明が頷くと、侍女は微笑んで立ち上がり、バルコニーへ導く為に泰明へ手を差し出す。
開いていた書物を閉じて、泰明が素直にその手を取ろうとしたとき、こちらへ近付いてくる足音に気付いた。
そちらに顔を向けると、目の前で足音がゆっくりと止まる。
「失礼。泰明様ですね?」
そう言って、薄い金色の髪をした少年が一礼する。
初めて見る顔に、泰明が軽く首を傾げると、少年が小さく笑った。
「突然、声をお掛けして申し訳ありません。初めまして、セフルと言います。
国王付きの侍従として働いています。爵位も頂いています。パオンです」
「子爵様ですわ」
傍らで侍女が言葉を添える。
侍従とはいえ、国王付きともなれば、ある程度の身分がないと、務めることが出来ない。
「アクラムの?」
国王の名を聞いて、警戒心は薄らいだものの、怪訝に思う気持ちは拭えない。
少年の登場に、侍女が僅かに表情を曇らせたのも、少し気になった。
「その侍従が私に何の用なのだ?」
無邪気に問うと、セフルは再び微笑む。
「実は、先程偶然泰明様の御様子を拝見しまして。失礼ながら、泰明様は少々お時間を持て余しておられる御様子。
如何でしょう、気分転換に外にお出でになるというのは」
その申し出に泰明は色違いの瞳を瞠り、次いで戸惑うような顔になる。
「しかし…」
「大丈夫です。それ程遠くではありません。そうですね…すぐ近くの海辺などは如何でしょうか?勿論、僕が責任を持ってお供しますので」
「海?」
淡々とした声音に、僅かに心惹かれたような響きが宿る。
それを捕らえるように、セフルは手を差し伸べる。
「海がお好きなのでしょう?見ていれば分かります。さあ、参りましょう!」
誘い掛ける少年の真意が分からない。
泰明は華奢な首を傾げたまま、セフルを見上げた。
「しかし、お前には侍従としての仕事があるだろう?私などに構う時間はないのではないか?」
「え?」
意表を突かれたように、セフルの青い瞳が瞠られる。
次いで、その瞳に一瞬刃物のような光が過ぎった。
「何を仰る。貴方は唯一の妃候補ではないですか…」
呟きながら、セフルは閃いた光を隠すように目を伏せる。
次いで、顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「御心配なさらないで下さい、今日は僕、休みなんですよ。
泰明様のお供を申し出ているのも僕自身の希望です。ですから、こちらもお気遣いは無用です」
さあ、と再び差し出されたセフルの手は、既に泰明の手を捉えんばかりだ。
「お、お待ち下さい!私も参ります!!」
不安そうにふたりのやり取りを見守っていた侍女が咄嗟に口を挟んだが、セフルは彼女の言葉を遮るように命じる。
「貴方はここにいなさい。泰明様のお供は僕一人で十分だ」
「ですが…」
「泰明様のお供が僕一人では不満だと?」
侍女風情が出過ぎたことを言うなと、侍女にだけ分かるよう、目で威圧する。
「そのような…」
侍女は困り果てたように沈黙する。
「さあ、泰明様」
徐々に強引さを増すセフルの言葉。
彼の態度を訝しく思う気持ちは変わらない。
泰明はもう一度海に面した窓外を見た。
溢れる光。
少しだけなら…
泰明は微かに頷いた。
「泰明様…」
不安げに呼び掛ける侍女に微笑んでみせる。
「岩だらけの海岸は、お前には危険だろう。私は大丈夫だ。お前はここで待っていてくれ」
そう言い付けて、セフルの手に白い手を重ねる。
「では、参りましょう」
泰明を導きながら、セフルが満足そうに微笑んだ。
それは何処か邪悪な笑みだった。