花精雪舞(後編)

 

「泰明が風邪を引いたみたいだよ」

夕餉の席で、皐月丸がいつも泰明が座る場所をちらりと見遣りながら、何気なく口を開いた。

「え」

その言葉に弾かれるように顔を挙げた如月丸は、

次いで、過敏に反応してしまった自分を恥じるように俯き、目のまえの膳を見下ろす。

しかし、箸の動きは止まってしまっている。

今、この場には皐月と如月しか居ない。

晴明は先に夕餉を取るよう、ふたりに言い残して、部屋を出て行った。

泰明の看病をしているのだろう。

「泰明が風邪を引いたのは、お前のせいだよ」

皐月が箸を動かしながら、静かにだが、きっぱりと言い放つ。

「な…っ!」

如月が思わず、皐月を睨むと、実際の年齢より幼く見える如月とは逆に、

年齢より大人びて見える血の繋がらない兄は、まっすぐ弟を見返した。

「だって、そうだろう。

泰明が外に居るのを最初に見付けたのはお前なんだから、父上にそのことを知らせる前に、

お前が泰明を中に入れれば良かったんだ」

「……」

如月が気まずそうな、後ろめたそうな表情で黙り込む。

「父上からも常々、言われているだろう?

泰明は見掛けとは違って、生まれたての幼子も同然だから、弟だと思って気を付けて見てやって欲しいって。

それとも、父上の言うことに従えないほど如月は泰明のことが嫌いなのか?」

泰明は自分たち兄弟に嫌われるようなことは何一つしていない。

好かれるようなこともしてはいないが。

そんな皐月の問いを如月は強く否定する。

「そんなんじゃない…!」

「じゃあ、逆なのかな。好きだからそうできないってことか?」

「…違!」

否定しようとして、如月は言葉を詰まらせた。

思わずといったように上げられた顔は真っ赤だ。

見事に耳まで赤い。

その様子を、動かし続けていた箸を一瞬休め、呆気に取られて眺めた皐月だったが、

すぐに気を取り直すように溜め息をつく。

「あのな、如月」

「…何だよ」

「分かってると思うけど、幾ら似ていても、泰明は利花様じゃないんだ」

「分かってるよ」

「疑わしいなあ」

「………」

赤い顔のまま、黙り込んでしまった如月を、少し眉を顰めて眺め、皐月は再び箸を動かし始める。

年が明けて、十八になった皐月丸は、この春に遅ればせながら元服を迎えることになった。

その後は、陰陽師として大内裏の陰陽寮に出仕することになっている。

泰明もまた同様に、春から陰陽師として出仕することが決まっていた。

希代の陰陽師、安倍晴明の養い子といえども、新米陰陽師に過ぎない自分に、

どれだけのことが出来るか分からないが、ひとの世にさえ慣れていない泰明を、

兄として出来るだけ手助けしようと、皐月は考えている。

しかし、利花に淡い思慕を抱いていた如月は、そう簡単に泰明を「弟」として見ることが出来ないのだろう。

「……分かってるよ」

ポツリと呟かれた声に、皐月は目を向ける。

いつの間にか、膝の上で両の拳を握っていた如月は俯いたまま、言葉を継いだ。

「悪いことをしたと思ってる…」

泰明は利花ではない。

そんなことは、百も承知だ。

それでも、面影を重ねてしまう。

泰明と利花との共通点、相違点のひとつひとつに戸惑ってしまう。

しかし、如月が泰明に素っ気無くしたのは、それが理由ではない。

泰明が自分のことを忘れてしまったからだ。

泰明が生まれて間もない秋に、初めて出会ったことを。

二度目に出会ったとき、泰明は顔に呪いの痣を施されていた。

そのときにはもう、あの無表情で、初めて会った者に対するように無関心に如月を見たのだ。

顔の呪は、今の泰明が、なるべく早くひとの世に馴染めるよう、施したのだとしか晴明は言わなかった。

ただ、その所為で少し記憶が失われている部分があると。

その失われた記憶の中に、自分との出会いが含まれていたということが、如月は無性に悔しかった。

だから、冷たくしてしまったのだ。

泰明は悪くないのに。

これは身勝手な八つ当たりだ。

深く反省している如月の様子に、皐月の表情が柔らかくなった。

「そう思うんなら、泰明に謝らないとな」

「………うん」

「何だ、歯切れの悪い返事だな。僕も一緒に謝りに行くか?」

「…っ、大丈夫だ!ひとりで行ける!」

「あ、そう」

向きになる如月に、頑張れよ、と素っ気無い振りで、皐月は軽く手を振った。

 

 

ふと、泰明が目を覚ますと、ずっと傍で泰明の世話を焼いていた晴明の姿がなかった。

頭が熱くて、朦朧とする。

晴明の持ってきた粥をひとくちふたくち口にして、薬湯を呑んだ記憶がある。

睡眠効果もある薬だと晴明が言っていたから、その薬が効いたのだろう。

己が寝入ってから、どのくらいの時間が経ったのか。

もう夜になっただろうか。

いつもなら母屋の奥に居ても、気配のようなもので昼夜の区別が付いていたのに、今はそれもままならない。

熱に潤んだ瞳で、泰明は暗い室内をゆっくり見回した。

すると、

「うなぅ」

耳元で鳴き声がした。

その声の方に頭を僅かに動かすと、頬にふかふかとした感触があった。

邸の飼い猫の伽野である。

「……お前か」

泰明は掠れた声で呟いた。

泰明が暖かいので、擦り寄ってきたのだろう。

僅かに紅い唇を綻ばせ、泰明はゆっくりと、顔の横で丸まっている猫のほうへ身体を向けた。

「…お前も風邪を引くのか?」

暖かい毛を細い指先で撫でながら、泰明は問う。

「にゃあ」

朦朧とする頭では、伽野の応えもうまく捉えられないようだ。

風邪を引くというのは不便なものだな。

これからは気を付けようと、ぼんやり考えながら、ごろごろと喉を鳴らす伽野を撫でているうちに、

泰明はいつの間にか再び寝入ってしまった。

夢うつつに、誰かが己の前髪を梳いて額に手を当てるのが分かった。

席を外していた師匠が戻ったのだろうか。

それとも…

しかし、深い眠りに捕らわれていた泰明は、それが誰か、確認することが出来なかった。

 

次に泰明が目覚めたときには、もう頭はすっきりとしていた。

朝の気配を感じる。

眠っている間に、着替えさせられたのだろう、身じろぐと、乾いた小袖がさらりと肌を撫でた。

そうして、泰明がゆっくりと身を起こすと、

さらさらと翠色の髪が白い単の肩を滑り、華奢な背を覆いながら褥に拡がった。

「…?」

枕元においてあった物に気付いた泰明の翡翠と琥珀の瞳が、いぶかしげに細められる。

冊子箱の蓋の上にそっと置かれているのは、一輪の小さな椿の花。

赤い花弁と黄色い花芯、枝に二枚ほど付いている青々とした葉の色が瑞々しく目に鮮やかだ。

手に取ってみると、細い枝はひんやりと冷たい。

また、赤と青のところどころを白く彩る雪片が、この花が置かれたばかりであることを示している。

「おはよう、泰明。加減はどうだ?…おや」

部屋に入ってきた晴明が、褥の上に身を起こしている泰明と、

その細く白い手を飾る椿の花とを目に留め、少し目を丸くする。

「これはお師匠が?」

泰明が淡々と問うと、晴明は首を振った。

「いや。つい先程、様子を見に来たときには何もなかった。

どうやら、折り取られたばかりの枝のようだが…ははあ……」

言い掛ける途中で、ふいに気付いたように、晴明はひとり頷く。

「?何なのだ?」

火桶の中の灰を掻き回して炭を熾しながら、晴明は不思議そうに首を傾げる泰明に微笑み掛けた。

「部屋に来る途中、反渡殿のところで、如月を見掛けたのだ。おそらく、あれの仕業だろう」

「如月が?何故?」

「見舞いのつもりなのだろう」

「見舞い?」

「お前の病が早く癒えるように、早く元気になって動けるように願って、贈り物をしてくれたのだよ」

「おくりもの…」

泰明は手にした赤い花を見詰める。

「如月は私が嫌いなのかと思っていた」

そう言うと、晴明は驚いたように黒い目を瞠り、それから朗らかに笑った。

「そうか、お前には如月の態度はそのように見えていたか。心配することはない。あれは照れの裏返しなのだ。

お前のことが好きで気になって仕方がない…

同時に、それが気恥ずかしくてならないから、つい素っ気無い態度を取ってしまう」

「良く分からぬ」

「そうだな、お前にはまだ早い問題かもしれぬ。

それはともかく、如月がお前のことを嫌っているなどということはないから、安心するといい」

「私は心配だとは一言も言っておらぬが…」

「まあまあ」

手元を見詰める泰明の瞳に、穏やかな光が垣間見えるのに、泰明に向き直った晴明は何処か安堵する。

「後で、如月に礼を言わねばな」

微笑みながらそう言って、泰明の白い額に手を当てる。

「どうやら、熱は下がったようだな。他はどうだ?泰明、他に何処か身体に不具合なところはないか?」

「問題ない」

「そうか」

笑顔で頷いた晴明は、櫃の蓋に乗せてある二揃いの着物を泰明に差し出した。

「では、着替えだ。泰明、どちらを選ぶ?」

ひとつは、白い単、もうひとつは表が蘇芳、裏が赤の狩衣一式。

「では、これを」

もう床を上げるつもりだった泰明は、迷わず狩衣を選んだ。

「やはり、お前は真面目だな。私としてはもう少しお前の世話を焼きたかったところだが…まあ、仕方あるまい」

今度は微苦笑して、晴明は泰明が選んだ狩衣を拡げる。

「奇遇にも、今日は椿の襲ねにしたのだ、これもお前には似合うだろう」

うきうきしたようにそう言う師匠は、すっかり自分が泰明を着替えさせるつもりでいるようである。

もう、泰明はひとりで着替えることができるというのに。

しかし、師匠の意向に逆らう理由はなかったので、泰明は素直に着替えを手伝って貰う。

少し高めの位置で帯を締めて、着替え終わった泰明を正面から眺めた晴明は、ひとり頷く。

それから、

「起きるのはいいが、無理は禁物だ。狩衣の上にはこの袿を着ていなさい」

白い袿を手渡されて、狩衣の上から羽織る。

腕を組んで再びその姿を眺めた晴明がふと思い付いたというような顔をして、泰明を手招く。

それに従って正面に腰を下ろすと、

「…!」

枕元の椿を取り上げた晴明が、泰明の右耳の上、鬢の辺りに花を挿した。

花が落ちないよう指先で髪と花を整えて、

「うむ、完璧だ」

自分の才能が何やら怖いぐらいだぞ、と訳の分からないことを言いつつ、晴明は満足そうに目を細めた。

「雪に咲く椿姫…だな」

「?」

呟かれた言葉の意味は分からなかったが、着替えはこれで終わりらしい。

泰明は、す、と立ち上がる。

「ん?如月に礼を言いに行くのか?」

「そうだ」

「ならば、皐月にも声を掛けて、三人で寝殿に行きなさい。そこで、皆で揃って朝餉をとろう」

「分かった」

こくりと頷いて、泰明は袿の裾を引きながら、危なげない足取りで、部屋を出て行った。

椿の花精の前で、椿の花よりも真っ赤になるだろう如月の顔を想像して、部屋に残された晴明はひとり笑う。

それからふと、真面目な顔付きになった。

 

照れが先に立って、素直に泰明への好意を示すことの出来ない如月。

その如月の態度を嫌われているものと解釈した泰明。

ふたりとも、ひととして器用ではない。

このままでは、些細なすれ違いが大きな溝になってしまうのではないか、という一抹の不安がある。

如月が今の幼さを多少なりとも、拭い去ることが出来れば良いのだが。

そこまで考えを巡らしてから、晴明は苦笑して首を振る。

これは自分が余計な嘴を挟む問題ではない。

彼ら自身が考えて、彼らなりの答えを見出さなければ意味がないのだ。

「…まあ、なるようにしかならぬだろう」

年寄りはおとなしく、こどもたちの成長を見守ることにしよう。

そうひとりごちて、脳裏に浮かんだ面影に微笑み掛ける。

ただ、子どもたちの幸せを祈るくらいは許されると思うのだ。

例え、血の繋がりはなくとも、彼らは確かに自分たちの子どもなのだから。

 

「…なあ、利花……」

 

淡い呟きが、朝の空気に溶けていった。



頂きましたリクエストは、「やっすんが風邪を引くお話」でした。
リクエストくださいましたマシュマロさま、有難う御座いました!(平伏)
毎度の如く(苦)、微妙にリクからずれた「ほのぼの安倍一家の日常」的な出来になってしまいましたが、いかがでしょうか?
ご覧くださった皆様に、少しでもお愉しみいただけたら、幸いです♪
そして、前作の如月丸に続いて、晴明のもう一人のお子、皐月丸が初登場。
ちょっとクールに、でも優しく弟たちを見守っています(笑)。
一応、この話はカップリング設定なしで書いていたつもりだったのですが、
やはり、書く人間が根っからの「やす受好き」のせいか、いつの間にか「如月丸×泰明」っぽい感じに(笑)。
見ようによっては、「晴明×泰明」に見えないこともない…?
私的には、このふたりはほのぼの親子のつもりなのですがね(笑)。
で、このほのぼの安倍一家、師匠が子を持てないため、皆血の繋がりがない設定になっております。
師匠が子を持てない理由…いずれ、書かねばなるまいとは思うものの、いつになるかは不明(汗)。
簡単に言えば、強い霊力を持つがゆえの代償…みたいなものです。
如月とやっすんの微妙なすれ違いは、今後も続きそう(苦笑)。
そして、椿姫やっすんの姿を想像して、あまりの可愛らしさに身悶えしている馬鹿な作者がここに(笑)。
ああ、なんて可憐なんだ♪流石は姫♪♪
一緒に身悶えてくれる方、常に募集してます!(笑)

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