初秋といえども、水は凍りつくように冷たい。
しかし、それに構うことなく、単一枚だけを纏った泰明は、この禊場でひたすら身を清めていた。
怨霊退治の際に、不意を突かれて、瘴気を浴びた。
怨霊を倒すことは出来たが、穢れを帯びたまま、邸に戻ることは出来ない。
陽が落ちて、夕闇が迫り来る時分になっても、泰明は水に浸かったままだった。
白い肌に張り付いた単と濡れた長い髪は、水と陽の温みを失った外気に晒され、
すっかり冷たくなっている。
その冷たい布と髪を纏い付かせた細い身体も同様に冷え切っている筈なのに、
それに気付いていないのか、泰明はひたすら冷水を掬っては肩や腕に注ぎ掛け続けていた。
…今日倒した怨霊は、鬼によって作り出されたものだった。
飽くことなく水を掬いながら、泰明は無意識に己の頬を拭った。
拭った白い手に鮮やかな紅。
「…ここにも穢れが残っていたか」
呟いて今度は掬った水を擦り込むように、執拗に頬を片手で擦り始める。
しかし、紅はなかなか消えてくれない。
細い指の間から掬った水が全て零れ落ちてしまったので、いったん擦る手を止める。
この穢れは最早拭えぬものなのではないか。
ふと、気付いて無心の動作が止まった。
胸の動悸が僅かに早まるのを感じる。
それに急かされるように、掬うことはせずにそのまま水に浸した手を上げる。
また、頬を擦ろうとしたその手首を、ふいに掴まれた。
「もう止めなさい」
「友雅…」
虚ろな視線が彷徨い、硬い表情をしている目の前の男へ辿り着いた。
優雅な笑みを湛えているいつもの彼とは雰囲気が違うが、確かに友雅だ。
「何故…ああ…」
問い掛ける途中で、途中出くわした友雅に付き添われて、ここまで来たことを思い出す。
友雅が、ひとりで怨霊退治に出掛けた己を案じて迎えに来ていたことに、泰明は気付いていなかった。
今も、泰明を見詰める友雅の瞳にある悲しげな翳りの理由が、己に関係していることに気付けない。
ただ、友雅は何に心を痛めているのだろうかとぼんやり考えていた。
「いつまで経っても、君が出てこないから様子を見に来たんだよ。
さあ、もう禊は充分だろう。上がって着替えるんだ。そうしたら、邸までお送りするよ」
「いや、まだ穢れが残って…」
「残ってなどいないさ。君は最初から穢れてなんかいない」
少し怒ったような口調で、泰明の言葉を遮り、友雅は泰明の頬を掌で包むようにそっと触れた。
温かい手に触れられて初めて、泰明は己の頬の冷たさに気付いた。
「幾度も擦るから傷が酷くなっているよ」
言いながら、抵抗する隙を与えずに、友雅が泰明の華奢な身体を抱き上げ、水から出る。
己の身体で抱き包むようにして、寒さに強張る泰明の身体に、しっかりと腕を回す。
そうして、滑らかな頬に未だ鮮やかに紅い血を滲ませる傷にそっと口付け、労わるように舌で辿る。
その温かさと痛みに、泰明はようやく、穢れだと思い込んでいたものが傷であったこと、
己が怪我をしていたことに気が付いた。
次いで、友雅の腕に抱かれているずぶ濡れの己を自覚する。
「下ろせ。濡れるだろう」
胸を押して離れようとする泰明を、友雅は一層強く抱き締める。
「さっき水に入ったから、もう濡れているよ」
「ならば尚更だ。そのままでは、風邪を引く。早く私を離して、濡れた衣を着替えろ」
「それは私の台詞なんだがね」
「私は風邪など引かぬ」
「それはどうかな?」
押し問答をする間にも、友雅はすたすたと歩いて、泰明が脱いだ衣を置いてある社へと向う。
その階に足を掛け、友雅が腕の中の泰明を見下ろした。
「私に風邪を引かせたくないのなら、君がまず私の言うとおりにすること。
早く着替えて温かくしなさい。それと傷の手当だ。それが済んだら、私も着替えるよ」
珍しく断固とした友雅の態度に、やっと泰明は観念したらしい。
細く息を吐いて、突っぱねていた腕を離し、友雅の腕に身を任せる。
しかし、その細い身体の強張りは、まだ解けていなかった。
友雅は、外の風が当たらぬよう、無人の社に置かれた質素な几帳の陰に泰明を座らせ、
冷たい彼の細い肩に、まだ濡れていない自分の乾いた直衣を脱いで掛ける。
「泰明?」
すぐ傍に彼の着物が畳まれて置いてあるのを見付けて差し出すが、泰明はそれを取らなかった。
その場に凍り付いたかのように、微動だにせず、宙の一点を凝視している。
友雅は溜め息を吐いて、畳まれていた着物を拡げる。
その袂から、転がり出た小さな入れ物を手に取り、ふたを取ってみると、
薬草の匂いのするとろりとした液体が入っている。
「これは傷薬かな?」
念のため問い掛けてみるが、応えはない。
それに再び溜め息を吐いて、着物を持って彼の前に跪く。
もう一度間近で頬の傷を確かめてみると、
もともと浅いものであったことが幸いして、既に血は止まり掛けていた。
ならば、まず泰明を着替えさせようと、肩に羽織らせた衣で、
丁寧に長い髪に含まれた水気まで取ってやってから、濡れた単の襟に手を掛けると、
唐突に泰明が柔らかそうな、だが、いつもより色の薄い唇を開いた。
「…私もいつか、あの怨霊のようになるのだろうか」
ポツリと零れ出た言葉。
「あの怨霊のように心を無くして。他の者の命ずるがままに動いて。
いや、そもそも私に「心」などというものがあったか?
ならば、今も既に、私はあの怨霊とさして変わらぬか。
ただ、京に害を為すことを、まだしていないだけの…」
「違うよ。君はあの怨霊とは違う。君はひとに言われるがままに動く人形ではない。
君には君の「心」があるんだ。だから、君があの怨霊のようになることは決してない。
そう私は確信しているよ」
泰明の独り言のような言葉を遮って、友雅は泰明に言い聞かせる。
このとき、今日初めて泰明が、友雅をまともに見た。
しかし、その翡翠と黄玉の瞳は、不安げに揺れている。
「だが、私は確信できない。お前が私を信じてくれるように、私は己を信じることが出来ないのだ」
「そうならないと言う私の言葉も君は信じられない?」
「出来うるならば、信じたい…だが」
そう心細げに呟いて、泰明は悲しげに俯く。
「すまない…」
「泰明…」
乾きかけた翡翠色の髪がさらりと揺れて、長い睫毛を伏せた容貌に更に、儚げな翳りを添える。
滑らかな頬に走る紅い筋が痛々しい。
そんな泰明の華奢な肩を友雅は抱き寄せる。
再び、己の胸に包み込むようにして強張りの解けない身体を抱き締めた。
そうしながら、泰明の心を蝕む闇を払う言葉を己のうちに探すが、見付からない。
「友雅」
そのとき、ふと、細い指が伸ばされ、友雅の袖を掴んだ。
「何だい?」
呼び掛けに優しく応えると、袖を掴む泰明の指が僅かに震えた。
「もし…いつか私があの怨霊のように、京に仇なす存在と成り果てたときには……
私を壊してくれるだろうか…?」
友雅はすぐに応えを返すことが出来なかった。
「これはきっとお前にしか頼めない。お前が約束してくれるならば、私はそれを信じられる気がするのだ」
淡々とした声音に滲む切実な響き。
彼が初めて乞う約束をどうして拒むことが出来るだろう。
例え、それを果たすことが己の身を切られるより辛いものだとしても。
「………分かった。約束するよ」
それでも、非常な苦労をして、どうにか応えを返すと、泰明の体の強張りがやっと解けた。
泰明は友雅の腕の中でゆっくりと安堵の溜め息を吐く。
「有難う、友雅」
淡く微笑んだ泰明を、友雅はただ抱き締める。
こんな約束をすることでしか、不安を拭えない泰明が哀しい。
こんな約束をすることでしか、彼を安堵させることが出来ない自分が、悲しく、情けない。
言葉に出来ない思いの代わりに、まだ冷たさの残る泰明の身体に、
自分の体温を移すように抱き締め続ける。
泰明の心もこうして温めることが出来たなら、今度は違う約束をすることが出来るだろうか。
いつか。
夕闇にほの白く浮かび上がる泰明の美貌。
その淡い光に縋るように、また、誓うように、友雅は泰明の僅かに綻ぶ口元に口付けた。