「失礼。安倍泰明殿がこちらにいらっしゃると伺ったのだが」
ちょうど陰陽寮の入り口で行き会った若者に取り次ぎを頼むつもりで声を掛ける。
すると、泰明の陰陽師仲間と見られる若者は、僅かに顔を赤らめた。
「えっ…や、泰明殿ですか?少々、お待ちください、確かめて参りますので」
そう応えて、身を翻す若者の足取りは、先ほどの億劫そうな重いものとは打って変わって軽やかだ。
それを眺め、友雅は僅かに目を細める。
(…ふぅん)
以前は、泰明への取り次ぎを頼むと、嫌そうに眉を顰められたものだが、最近はそうではなくなった。
そう、泰明の顔の呪いが解けて、彼の本来持っていた美しさが際立つようになってからだ。
察するに、あの若者も泰明に密かな憧れを抱いているものらしい。
無理もない。
今の泰明が見せてくれるようになった淡い微笑み、僅かな表情の変化ひとつひとつにさえ、
自分も目を奪われずにはいられないのだから。
気持ちは分かる。
(でも、駄目だよ)
泰明の呪いを解いたのは、自分なのだから。
(…と、いう訳で)
今の若者も警戒目録に追加。
友雅の細めた瞳が物騒に光った。
「お待たせいたしました。泰明殿は部屋で書類の作成をしておられる最中です。
お忙しいそうなので、こちらに来ていただくのは難しそうですが…」
「いや、構わないよ。始めから私が泰明殿のお部屋にお邪魔させていただくつもりだったから」
「では、ご案内のほうを…」
「いや、それも結構。泰明殿の部屋なら知っているからね。君も仕事があるだろう。
私のことは構わずに仕事に戻りたまえ」
「そ、そうですか。それでは……」
にっこり微笑んで、一見親切めいた言を継ぐ友雅に、それでも、何かを感じたのか、
泰明の同僚の若者は名残惜しそうにしながらも、その場を去っていく。
邪魔者を体よく追い払った友雅は、手にした扇を弄びつつ、
勝手知ったる陰陽寮内を泰明に宛がわれた仕事部屋へと向かう。
御簾を割るように片手で上げて、中を覗くと、文机に向かう泰明の細い背が見えた。
「やはり、お前か、友雅」
「姫君のご機嫌を伺いにきたよ」
「問題ない。だから、こうして仕事をしている」
淡々と応える声の狭間に、筆が紙を滑るサラサラという音がする。
せっかくこうして会いに来たというのに、こちらに顔を向けもしない。
真っ直ぐ伸びた背や、細い肩に留まる艶やかな髪さえ、微動だにしない。
(…やれやれ)
泰明のこんなつれなさも気に入ってはいるのだが、こうまで素っ気無くされると、流石に少々寂しい。
しかし、友雅も慣れたもの、これしきではめげなかった。
「先ほど、お前の来訪を告げに来た者にも伝えた筈だが、私は今、手が離せない。
すまないが、お前の相手はできかねる…っ!」
いきなり、背後から腰を引き寄せられるように抱き締められて、泰明は驚く。
思わず筆を取り落としそうになるのを、後ろから腕を伸ばした友雅が、
泰明の華奢な手ごと包み込むように捉える。
そうしながら、泰明の肩に顎を乗せ、目の前の書類を覗き込む。
「今はどんな仕事をしているの?」
「こら、覗くな」
筆を持った手はそれとなく押さえられ、腰もしっかりと抱きかかえられて、泰明は身動きが取れない。
首だけを振り向けて睨んでも、友雅は何故か嬉しそうに笑うばかりだ。
「…今朝、内裏で行った祓えの報告書だ。本日中に纏めて、陰陽頭に提出せねばならぬ」
だから、この手を離せと突き放すが、
「ふうん。それは大事な仕事だね。でも、祓えに参加したのは泰明だけではないだろう?
これはどうしても、泰明がしなければいけない仕事なのかな?」
と、笑顔で問い返される。
「確かに、祓えに参加した寮の者であれば、誰がやってもいい仕事だが…」
泰明は要点を簡潔に纏めるが得意なので、こうした報告書などの作成は自然彼の仕事となっていた。
思わず、素直に応えてしまった泰明だったが、友雅は言質を取った、とばかりに、にやりとする。
「では、決まりだ」
「?何が…っ!…友雅!!」
友雅はそのまま、驚きの声を上げる泰明を抱き上げ、悠々と部屋を出て行く。
「下ろせ!友雅!!」
「そこの君」
泰明の抗議は聞かぬ振りで、ちょうど部屋の前を通りかかった若者に声を掛ける。
いかなる偶然か、それは先ほど取り次ぎを頼んだ若者である。
「どうなさったのですか?」
「実は、泰明殿が急に身体の具合を悪くされてね」
「え?!それは大変です、何処かお休みになれる場所へご案内を…」
「嘘だぞ!!」
ふたりの会話に泰明が噛み付くような口調で割って入る。
心配そうな顔をしていた若者が、呆気に取られたような顔をする。
恐らく、この若者は、常に冷静沈着な彼の姿しか知らないのだろう。
そのことにちょっとした優越感を感じつつ、腕の中で暴れる泰明を容易く抑えながら、友雅は言を継ぐ。
「君の申し出はありがたいが、ここでは泰明殿は落ち着けそうもないので、
私がこのままお邸までお送りするよ。ほら、こんなに暴れて。よほど辛いのだろうね」
そう言うと、暴れていた泰明がぴたりとおとなしくなった。
当然の抵抗を身体の具合が悪い所為にされて、泰明の白い頬が染まる。
膨れっ面となって、友雅を睨みつける。
そんな不機嫌な表情まで可愛らしい。
しかし、泰明はすぐさま、その表情を隠すように俯き、友雅の胸に顔を伏せた。
どうやら、逆らっても無駄と、観念したらしい。
「しかし、本当に泰明殿は大丈夫でしょうか?何か悪いものに憑かれているのでは…」
若者は泰明の身を本気で案じているのか、はらはらとした様子で問うてくる。
「それほど大したことにはならないと思うよ。
きっと仕事が忙しくて疲れた所為で、ちょっとした悪い気に中てられたんだろう。
彼のお師匠様に診てもらえばきっとすぐ治る筈だ」
「そう…ですね。私たち寮の陰陽師よりも晴明様のほうが、
確実に泰明殿を悩ませる悪い気を打ち払ってくださるでしょう」
まだ、気掛かりそうな素振りを見せながらも頷く若者に、友雅はにっこり笑い掛け、本題に入る。
「それで、ものは相談なのだが。泰明殿が途中まで携わっていた仕事を君に引き継いで頂きたいのだよ」
「えっ?!」
「今朝方の祓えの報告書で、本日中に提出しなければならないそうだ」
「いや、私は……」
「できるだろう?」
断ろうとする若者を友雅は笑顔で黙らせる。
「泰明殿のためだ。まさかできないなんて…言わないだろう?」
高い身長を生かして威圧しながら、表情だけはあくまでもにこやかに、友雅は要請する。
「は…はいぃぃ…」
その迫力に押されて、若者は頷いてしまう。
「有難う、助かるよ」
身を起こした友雅は、細身ながらも人一人を抱えているとは思えない軽やかさで身を翻す。
「ああ、そうそう。ついでに、明日、泰明殿はお休みすると陰陽頭どのにお伝え願えるかな」
厄介な伝言を追加して、友雅が去った後、若者はその場にがっくりと膝を折った。
次の被害者はあいつか、という通り掛かった同僚の囁きが耳に入ったかは定かではない。
「あの者は、今年陰陽師になったばかりだというのに、酷なことを」
「きっと彼もいい勉強になるさ」
寮を出たところで、腕の中の泰明がそう文句を言うが、まんまと泰明を連れ出すことに成功し、
泰明に思慕を抱く若者を退けた(?)友雅は上機嫌である。
「よくも、私を病扱いしてくれたな」
「痛たたたたた…」
不機嫌を丸出しにした泰明に、思い切り頬を引っ張られるが、友雅は笑顔のままである。
こんな扱いを受けても、彼が可愛くてならない自分こそ、手に負えない病人かもしれない。
しかし、そろそろ姫君のご機嫌を治さないと、後々に響く。
「ごめんごめん。お詫びにこれから君の行きたいところにお連れするよ」
泰明はぷい、とそっぽを向く。
そうしながら、
「火之御子社に連れていけ」
と、言い放って再び、つれなく顔を伏せた。
しかし、その細い手は、離れないようにこちらの胸元をきゅっと掴んでいる。
「お望みのままに」
再び、頬を緩めてしまいながら、友雅は華奢な身体を注意深く抱き直し、
衆目を気にすることなく、悠々と歩き出した。