月天譚 5

 

「その手を離しなさい」

ふいに響いた鋭い言葉と共に、友雅の首元に白く煌く刃が擬された。

 

止まっていたかに見えたときが動き出す。

 

同時に、甘美な死の誘惑に捕らわれていた心も現実に引き戻される。

「共に逝くことも叶わぬ…か……」

何処か名残惜しげに呟いて、友雅は泰明の首筋に込めていた力を緩め、その腕で泰明を抱き起こした。

既に意識が朦朧としていた泰明は、突然気道が開いて入ってきた空気に驚き、噎せる。

引き寄せられるままに、友雅の胸に縋り付くようにして背を屈め、暫し咳き込んだ。

まだ、苦しげに息を吐きつつ、ようやく顔を上げると、

「…永…泉……?」

紫の髪をした少年が、剣を手に目の前に佇んでいる。

その顔は厳しく引き締まり、常の優しげな表情からは想像できないほどの険しさに満ちていた。

幼い頃から知っている筈の少年が、急に全く知らない人間に見えて、泰明は掛けるべき言葉を見失う。

 

泰明を追い掛けて、森へ入った永泉は、全てを見ていた訳ではない。

迷わぬよう途中の木々に目印を残しながら森を進み、ようやく泉の辺に佇む彼を見付けたときは、

既に奇襲を仕掛けた敵軍の男が、泰明の首に手を掛けているところだった。

離れた木々の蔭にいた永泉に、ふたりの密やかな会話も聞こえよう筈がない。

しかし、敵である男の腕に縋る泰明と、その細い身体を抱き締め、口付ける男の様子から、

ふたりの関係を察するには充分だった。

こちらに背を向けた男の身体の下から覗く白い手と地に乱れ散る翠色の髪が、鮮やかに目に焼き付く。

まるで、睦み合いを目の当たりにしているような艶めかしい光景に、一瞬目を奪われていた永泉だったが、その直後、

湧き上がってきた、怒りとも嫉妬ともつかない、焼け付くような感情に心が支配され、

気付けば剣を抜き放って彼らの元へ飛び出していた。

 

「…よくも、泰明殿を……」

呻くように低く呟いた永泉は、友雅の首元に当てていた剣を引き、次いで厳然と言い放った。

「その剣を取りなさい」

「…私の剣を?」

「そうです。その手に掛けてまで泰明殿が欲しいというのなら…まずは私を倒しなさい。

そうでなければ……私は認めない」

何を、とは訊かずとも友雅には、充分に分かった。

「そうですか…貴方にとっても、彼はかけがえのない存在なのですね」

友雅はふ、と溜め息のような笑みを零し、傍らに投げ出されていた己の剣を手に取った。

「分かりました。私も貴方の彼への想いに応えなければならない。

私の彼への想いを証明しなければならない。そういうことなのですね」

永泉は応えず、ただ己の剣を翳した。

 

並々ならぬ戦意を見せる永泉に、正直、勝てる自信はなかった。

例え、勝てたところで、生きて泰明を手に入れることなど出来ないのだから。

しかし、彼を想う気持ちだけはこの少年に負けていないと信じたい。

だから…戦うのだ。

 

友雅は永泉を見据えながら、そっと泰明の身体を離そうとする。

が、逆に強くしがみ付かれ、視線を泰明へと戻した。

「泰明?」

「や…めてくれ……」

俯いて強くしがみ付いてくる泰明の細い手が震えている。

「泰明殿?」

永泉の表情も動いた。

すると、弾かれるように顔を上げた泰明が、永泉に向かって叫んだ。

「止めてくれ、永泉!その剣を…引いてくれ!お願いだ!!」

「泰明殿……」

澄んだ色違いの瞳が、泡立つように揺れ、そこから溢れた透明な雫が珠のように散る。

その瞳が、その涙が、言葉よりも雄弁に泰明の心情を語っていた。

 

その男を愛しているのか。

 

口に出して確かめるまでもない。

永泉は唇を強く噛み締め、愚かしい問いを封じた。

代わりに、もうひとつの、これもまた心からの真実の言葉を泰明に告げた。

「我ら天軍には…いや、我が国には、泰明殿、貴方が必要なのです」

その言葉に、泰明が意表を突かれたような顔をする。

「…だが、私には、もうその資格はない……」

「いいえ!それを決めるのは貴方ではない。貴方の役目は終わっていない。

戦は終わっていない。貴方の愛する民はまだ、幸せになってはいないのです!!」

永泉の切迫した叫びに打たれ、泰明は目を見開いた。

 

そうだ。

己が戦い始めた一番の理由は…願いは。

それが叶わぬまま、全てを捨てても良いのか。

 

混沌とした夢から今初めて目覚めたような心地だった。

 

「泰明」

耳元で優しく名を呼ばれ、顔を上げる。

「友雅…」

 

今も尚、惹かれるその瞳。

泰明を見詰める碧い瞳は、今は穏やかだ。

彼の迷いを見透かしたように、友雅が微笑んだ。

「泰明。君の好きなように…したいようにすればいい。私は…止めないよ」

静かに促す言葉。

しかし…

 

その瞳に浮かぶ穏やかさは、「諦め」ではないのか。

泰明が永泉と共に戻ることを選んだとき、友雅はどうするのか。

何よりも、己自身が友雅から離れることに、引き裂かれるような胸の痛みを憶えている。

 

「泰明殿」

永泉の呼び掛けが、決断を迫るかのように耳に響く。

 

「私は……」

泰明は強く己の唇を噛んだ。

 

…選べない。

どちらも失えないと心が叫んでいる。

 

 

静かで緊迫した沈黙を破ったのは、木々の向こう側から近付いてくる喧騒だった。

永泉がはっと息を呑む。

「…どうした」

「…陣に敵襲があったようです。

私がこちらに向かう前に、万一敵襲があった場合は軍勢を率いて迎えに来いと言い渡しておりましたから……」

その為にここに到る途中に目印を残しておいたのだ。

恐らくこの森は、そのまま戦場となる。

 

緊張を孕んだ永泉の言葉。

己には最早、迷う時間さえ残されていない。

それでも、泰明は動けなかった。

…選べなかった。

「泰明」

知らず震える身体を優しく抱き締めてくれる強い腕。

その腕に縋ってしまいたい。

しかし、そうして逃げてもいいのか。

ふたつの気持ちが鬩ぎ合い、身動きが取れない。

 

迷う間にも、喧騒は近付き、乱れた足音や剣がぶつかり合う音まで届いてくるようになった。

すると、泰明の様子をじっと眺めていた永泉が目を伏せ、不意にその身を翻した。

 

「行きなさい!」

「永泉?」

「今ならまだ、木々に紛れて、軍の向かってくる反対側に抜けることが出来る筈です。

行きなさい。泰明殿を連れて」

友雅に向かってそう言った永泉を、泰明は目を見開いて見詰める。

そんな泰明の驚きと疑問が入り混じった瞳と、背中越しに瞳がかち合い、

永泉は苦笑のような、それでも優しい笑みを見せた。

「私は幼い頃から泰明殿を知っております」

だから、昨日今日出会った者よりも多少は彼のことを知っているのだ、とだけ永泉は言った。

 

彼はいつでも迷いなく真っ直ぐ進むひとだった。

日天神の御子、そして月天将の名に恥じぬ清さと潔さを貫くひとだった。

その彼が、こうまで迷い、苦しんでいるのだ。

 

……それだけ、その男を愛しているのだろう。

失えないと思っているのだろう。

同時に、その恋と同じくらいの重さで、永泉と共に育った故郷を愛し、失えないと思ってくれているのだ。

 

…ならばいい。

何よりも、これ以上泰明が悩む痛ましい姿は見たくない。

彼には笑顔で…幸せでいて欲しい。

……愛しているから。

 

…彼が恋と同じほど捨て難く思うのが自分ではないことだけが悔やまれるけれど。

 

「行きなさい。後のことは私がなんとかします」

多くのことは語らず、ただもう一度そう告げた永泉は、抜き身の剣を携え、急いた足取りでふたりから離れていく。

ひとりで戦場へと向かう、その細いながらも、強い背中。

 

それを見たとき、ふいに泰明の中の迷いが消えた。

「待て、永泉!」

遠ざかる永泉の背中を呼び止め、泰明は友雅を見上げた。

「行くんだね」

「ああ、行く」

友雅の言葉にはっきりと頷き、すっと立ち上がる。

そんな彼に、友雅は自分の剣を差し出した。

 泰明の折れた剣の代わりに。

 自分の代わりにその剣が泰明を守ってくれるように。

 

 驚いたように立ち止まった永泉に強く頷きを返してから、泰明はその剣を受け取った。

 「友雅」

 ゆっくりと立ち上がった友雅と目を合わせる。

 「私はもう少し、もがいてみたいと思う。友雅の傍にいたい。我が国の民に幸せを齎したい。

私には、そのどちらかを選ぶことなど出来ない。ならば…その両方を得たいと思うのだ」

「泰明?」

意外な言葉に、友雅は目を見開く。

そんな彼に、泰明は陽に輝く花のように美しく、毅い微笑みを見せた。

「欲張りで傲慢な…無理な願いかもしれない。しかし、最初から諦めたくないのだ。

そして、出来得るなら…今は敵である友雅の故郷…その国の民の幸せも願いたい」

その微笑み、言葉によって、闇に染まっていた心に光が差したような気がした。

「私はこの戦を終わらせる。今までとは違うやり方で。だから、友雅は生きてくれ。また、会おう。

必ず…そのときは……」

笑顔のまま一瞬声を詰まらせた泰明を、友雅は抱き締める。

「…ああ、そうだね。私は…生きるよ。君の願いが叶うよう、及ばずながら、力も貸す。

例え、今は遠く離れても…また、会おう。そのときこそ、君の傍に……」

その言葉に泰明は頷き、聞こえるか聞こえないかの声で一言呟いた。

そうして、細い身体を離して、友雅に背を向け、永泉の元へと駆けていく。

 

愛しい姿が木々に紛れていくのを見送りながら、友雅は空の片隅に息を潜めるようにしてある白い月を見上げた。

 

『私は月ではない』

 

だから、闇夜ではなく、明るい陽の下でも逢える。

耳に残る言葉を静かに噛み締める。

 

「…さて、剣は泰明に預けてしまったし、まずは敵に見付かる前に陣に戻るかな。……忙しくなりそうだ」

そう呟き、友雅は泰明たちが去ったのとは逆の方向に向かって歩き出した。

 

生きるために。

…再び、出会うために……

 

 

「泰明殿。宜しいのですか?」

「ああ」

戦いの喧騒へと真っ直ぐ向かいながら、静かに問うた永泉に、泰明はしっかりと頷く。

「永泉」

「はい」

「私がこれからやろうとしていることを黙って見ていてくれるだろうか」

「何を仰います。私では力不足かもしれませんが、お手伝いさせて下さい」

力強い相棒の言葉に、泰明は己が手にした剣に目を遣った。

「…心強い」

 

そのまま永泉と共に、顔を隠すことなく敵味方入り乱れる戦場の只中へと飛び出した泰明は、高らかに名乗りを上げた。

 

「敵も味方も皆、静まれ!我は月天将!!そして、日天神が遣わされた御子である!!」

 


…わ、別れちゃったよ、このふたり……あれぇ〜?(汗)
しかし、大丈夫です!まだ、終わりじゃありません!!(苦笑)
次回は、ついに…というか、やっとエピローグとなります。
私的にはハッピーエンド♪の筈なのですが、どうなのかな〜?(どきどき)

…永泉の見せ場はこんな感じで。
幼い頃から想い続けていた姫君の心を奪われて、友雅氏に嫉妬心メラメラ(?)でも、
やっすんを思って身を引いちゃう辺りに「漢」を感じていただければこれ幸い♪
そして、私の愛する(笑)凛々しい姫の真骨頂。
やっすんには、今の状況に対して逃げることなく、前向きに挑んでいただくことに!
当然、道は平坦ではありません(汗)。
それでも、やっすんには幸せを諦めて欲しくないのです!!
友雅氏は結局、姫君の我儘を聞いてあげた形となる…のかな?
とはいえ、彼にもこの先に少し希望の光が見えてきた様子。
…だから、今は別れゆく〜〜♪←??

そんな訳で!次回も頑張りますので、何卒宜しくお願い致します!!


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