Blue 〜angel〜
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物陰に潜み、追っ手をやり過ごした天真は、思わず息を吐く。
汗に濡れた茶色の髪を掻き上げる。
雨上がりのひとの居ない時間を見計らって外出したはいいものの、流石に軍事基地に近付いたのはまずかったらしい。
すぐに見張りに見咎められ、必要以上に怪しまれてしまった。
確かに、軍事基地の様子を少しでも探りたいと思っていたのは事実だが。
とにかく、今回は出直しだ。
先程の追っ手が戻って来ないとも限らない。
天真は素早く身を起こし、動き出す。
足元で水溜りが跳ね、周囲に水滴を散らす。
思わず、舌打ちが漏れた。
こんなことでは駄目なのだ。
軍の演習を主に行う軍事基地に、恐らく妹は居ない。
しかし、妹が最初に連れ去られたのは、家にも近いこの基地に違いないのだ。
自分には、どうにかしてこの軍事基地に侵入し、妹の行方の手掛かりを得るしか術がない。
なのに、この一番初めの段階でこうもてこずっている。
やはり、ひとりでは無理なのか。
しかし、国を実質的に支配する軍に敢えて立ち向かおうという気概を持つ人間が、何処に居る?
皆、例え不満があっても、それを呑み込み、現状に甘んじている者ばかりだ。
天真はふいに立ち止まり、身の内に湧き起こる焦りと苛立ちを鎮めようと目を閉じる。
ひとつ息を吸って、吐く。
吸うのは、お世辞にも良いとはいえない空気だが、雨の名残のお蔭か、いささかすっきりとした気分となる。
そうして、ゆっくりと閉じていた目を開くと。
目の前をふわりと過ぎった細い人影が目に入った。
天真が身を潜めていたのは、やや表通りから奥まったところにある、三階建ての低いふたつの建物の間の狭い小路だ。
その建物の屋上から、もう一方の建物の屋上へと、ひとりの人間が身軽に跳んだ。
いや、もしかしたら、人間ではないのかもしれない。
まるで背中に羽根でもあるのではないかと思えるほどの軽やかさだった。
ビルの屋上へ降り立った華奢な人影はすぐに建物の蔭に見えなくなったが、その一瞬の光景は天真の脳裏に焼きついた。
遠目にもはっきりと分かる整った美しい横顔とほっそりとした肢体。
稀有な翡翠色の艶やかな長い髪が、空気を孕んだコートの裾と共に、宙に舞い翻る。
男だろうか、女だろうかと迷わせる、また、それだけひとの目を惹き付けるその容姿(すがた)。
そう、まるで天使のような。
その夢幻のような姿が視界から消えた瞬間、気付けば、天真はその後を追い掛けていた。
ビルの屋上から、通りを走り去る軍服の群を見送った泰明は、ほっと安堵の息を吐く。
どうやら、己を探す追っ手ではなかったらしい。
しかし、油断は禁物だ。
今、己以外にも軍から追われている者が出歩いている可能性がある。
その巻き添えになってこちらが見付かる訳にはいかない。
そう考えながら、ビル内部の階段ではなく、ビルの壁石の窪みや、
締め切られた窓の上部に作られた僅かな雨避けの屋根を足掛かりにして、身軽に難なく下りていく。
そうして、周囲に気を配りながら注意深く、地面に足を付いた瞬間、泰明は全身の毛が逆立つような緊張感に支配された。
すぐ傍にひとの気配がある。
ここまで近付かれたならば、逃げることなど到底叶わない。
そう判断したと同時に、泰明は腰に吊り下げた拳銃を引き抜いた。
振り向きざまに背後に迫っていた相手の眉間すれすれに銃を構える。
しかし、相手も素早かった。
泰明が銃の引き金を引こうとするときには、相手の銃口が泰明の額に押し当てられていたのである。
「…!」
互いに、相手の額に己の銃口を押し当てたまま、動けなくなる。
そこでやっと、相手の姿を目にした泰明は、意外な姿に目を丸くする。
見たこともない少年。
服装は一般民のものであるし、軍属の者には見えないが、訓練された軍人に負けず劣らずの反射神経の良さである。
しかし、泰明同様、驚きに瞠られた茶色の瞳には、悪意は見受けられなかった。
軍に追われていたのは、もしや、この少年だったのか。
それでも、泰明は警戒を解かなかった。
「お前は軍属の者か?それとも彼らから追われる者か?」
銃を突きつけたまま、端的に鋭く訊ねると、少年は僅かに頬を強張らせながらも、冷静に返した。
「…追われる方だ」
はっきりとした応えを得て、泰明がやっと構えていた銃を下ろすと、それに応えるように相手も銃を下ろした。
一方、泰明に銃を突きつけてしまった少年、天真は今だ、驚きから覚めやらずにいた。
天使のような人影を追ってここまでやってくると、突如として激しい殺気に襲われた。
その出所を確認する余裕もなく、反射的にこちらも銃を構えてしまったのだが。
そうしなければ、確実に殺されていた。
そう確信できるほど、素人離れした凄まじい殺気だった。
しかし、それをぶつけてきたのが、天真が追い掛けていた天使だったとは思いも寄らなかった。
今、こうして目の前にしていても、信じられない。
先程までの殺気を綺麗に消して佇むそのひとは、やはり天使のようにただただ美しくて、清らかで…
手にしている黒い拳銃が不似合いなほどの儚ささえ感じさせた。
だが、先程、鋭い殺気と共に自分に銃を突きつけたのは、間違いなくこの天使であるのだ。
どうやら目の前にいるのは、一筋縄ではいかない訳ありの天使らしい。
そう、天真は察する。
「お前も追われているのか?」
先程のことを忘れたかのように朗らかに訊ねた天真に意表を突かれたのか、天使が二度三度と忙しい瞬きを繰り返す。
長い睫に縁取られたくっきりとした瞳は、これもまた稀有な、翡翠と琥珀ふたつの色彩を持っている。
声が低かったから、おそらくは男なのだろうが。
…綺麗だ。
内心見惚れつつ、黙ったままの相手に、天真は文句を言う。
「何だよ、自分は訊いたくせに、俺の質問には応えないつもりか?」
「……」
相手はまだ、応えない。
しかし、目の前で揺らめいている澄んだ瞳は、何よりも雄弁だった。
天真の人柄を図りかねて、質問に応えるべきか否か、考えあぐねているのだろう。
戸惑う様子はあどけなくさえ見える。
天真は思わず笑みを零し、その澄んだ色違いの瞳を覗き込むように、先程の質問をもう一度繰り返した。
「もう一回訊くぜ。お前は、軍から追われているのか?」
「……」
Yes.
閉ざされた柔らかそうな唇の代わりに、その瞳が応えをくれた。
「そうか」
天真は頷き、この調子で他にも幾つかの質問をぶつけた。
「お前、この街に来たのはいつだ?最近か?」
Yes.
「宿は?決まってるのか?」
Yes.
「まさか、この街にいる間ずっとその宿に泊まる訳はないだろ?」
いつ軍が踏み込んでくるか分からない。
追われている身なら、宿は一定の場所に定めない方が良いだろう。
Yes.
「次に泊まる宿は決まってるのか?」
…No.
「ふうん…」
困ったように揺らめく瞳に、天真は相槌を打った。
しかし、すぐに思い決めたように、相手の華奢な手首を掴んで引っ張るように歩き出す。
「…っ何をする!」
「やっと口を開いた」
驚いて、抗議の言葉を発した彼に、天真は笑う。
彼によって命の危険に晒されたばかりだというのに、こうして、彼に触れるのは全く怖くなかった。
思った以上に細い手首の感触に一瞬、戸惑いを覚えたのは事実だが、それは恐怖と繋がるものではない。
むしろ、不謹慎なほどに心が浮き立つような、同時に面映いような気持ちが湧き起こる。
先程の苛立ちと焦りも、この浮かれ心地に払拭されてしまったような気さえする。
我ながら呆れたものだ。
「俺は天真。お前は?」
「…泰明。天真、少し待ってくれ」
手を引かれたまま、問いに応えた泰明が懇願するが、天真は強引さを改めない。
「大丈夫だよ。お前ひとりくらいなら、泊める部屋もある。それに、少なくとも普通の宿よりは俺の家のほうが安全だ」
「それはそうかもしれないが…」
「何だよ、まだ警戒してんのか?」
「そうではない」
天真の問いに首を振った泰明は、何処か遠慮がちに付け加えた。
「…連れがいるのだ。少し…傷も負っている。
お前の申し出は有り難いが、ふたりで押し掛けてはお前やお前の家族にも迷惑になろう」
思いも寄らなかった言葉に、天真は目を丸くするが、快活に笑って応えた。
「心配ご無用。俺は今、一人暮らしなんだ。…以前は四人で暮らしていたから、その分部屋数もある。
ひとりがふたりになったって、こっちは何の不都合もない。
お前の連れが怪我をしてるってんなら尚更、俺の家に来た方がいい」
それなら、泰明の連れが待っている宿に行こうと、返事を待たずに再び歩き出した天真の耳に、
「有難う」
小さな礼の言葉が聞こえた。
触れた手から伝わってくる彼の仄かな温みが心地よい。
天使のような泰明。
その連れがどんな人間であるのか。
泰明とはどのような関係なのか。
気にならないではなかったが、天真はこの場で詮索することはしなかった。
どうせ、すぐに顔を合わせるのだ。
そのときに分かるだろう。
ふう。やっと天真登場篇っぽくなってきました、三話目にして(苦笑)。 ようやく出逢った天真とやっすん。 天真がやっすんに一目惚れしてしまうのはお約束の展開です(笑)。 ふたりが出会い頭に銃を突きつけ合っちゃうシーンは、 前々から書きたいと思っていたシーンだったので、楽しく書けました♪ 姫は少々物騒な方が、手応えがあって良いのですよ、ふふふ♪(何の話だ) さあ、次回はこれもまたやっと(笑)、友雅氏の登場です。 新たな恋敵候補の天真とどんな顔合わせをするのか、見物ですね!(自分で言うな) それと合わせて、ちょっとだけらぶいシーンもお届けできたら良いなと思っとりますが… このBlueシリーズは、私の中で、1作につき、 1シーン以上のらぶを入れる決まりになってるみたいです(笑)。 ではでは。それほどお待たせせずに、次作をお届けできれば幸いです。頑張る!!(気合) top back