闇火

 

「こんにちは。泰明さんの具合はどうですか?」

 泰明のマンションを訪れた詩紋は、開口一番、頼久にそう訊ねた。

「ああ。熱も下がって、大分良くなられた。だが、電話でも言ったとおり、食欲がまだ回復しておられぬ」

「そうですか…」

 詩紋が安堵半分、心配半分の複雑な表情で、青い瞳を翳らせる。

「電話で事情は聞きましたけど…まだ、信じられないです。

あの泰明さんが、怨霊退治をした所為で、熱を出して倒れてしまうなんて…京にいた頃はそんなことは全然なかったのに」

 

 そう。

 詩紋や神子のいる現代にやってきた泰明は、本職の学生業の傍ら、依頼があれば、

陰陽師として除霊や浄霊の仕事を請け負っていた。

 元々携わってきた仕事だ、京から現代に舞台を変えても、泰明は手間取ることなく、完璧に仕事をこなしていた。

 故に、瞬く間に、そちらの業界では、「陰陽師の泰明」の名は、知らぬ者がいないほど有名となった。

 そうなると、その腕前を見込まれて、困難な依頼が来るようになる。

 それもまた、泰明は難なくこなしていたのだったが…

 

 一週間前。

 泰明は、あらゆる霊能者がてこずっていた強力な怨霊の除霊を成功させた。

だが、その直後、熱を出して倒れてしまったのである。

 原因は分からず、ただ、そのときはちょうど仕事と試験が重なり、

泰明は多忙を極めていたので、疲労が溜まっていたのだろうと周囲には判断された。

 だが、幾ら疲れていようとも、己を厳しく律する泰明が仕事の現場で倒れることなど本来ならばありえない。

 

「泰明殿自身に問題が無いならば、問題は泰明殿が対峙なさった怨霊にあるのだと思う」

 先に立って、泰明のいる寝室へと向かいつつ、頼久はポツリと呟く。

 短い言葉の先にある意味を悟った詩紋は、はっと目を瞠り、次いで悲しげに頷いた。

「そう…かもしれないですね」

 現代に巣食う怨霊は、きっと京にいた怨霊よりも、複雑で歪んだ恨みを抱えている。

 さながら、この現代社会の様相を鏡で映し出すかのように。

 恐らく、泰明は件の強力な怨霊から発せられる京で接したのとは違う種類の邪気…

毒気とでも言うべきものに中てられてしまったのだ。

 慣れない毒気は、元来無垢な泰明に、相当な痛手を与えてしまったのだろう。

 それでも除霊自体は成功させたのだから、大したものなのだが、泰明は己の失態を内心でひどく恥じているようだ。

 

「泰明殿。詩紋が来ています」

 ノックをしてから、静かに扉を開けた頼久がそう告げると、ベッドに横たわっていた泰明が、顔だけを戸口に向ける。

「こんにちは、泰明さん」

 頼久の広い背中から詩紋が顔を覗かせるのを認め、弱った腕に力を入れて、華奢な身を起こそうとする。

「どうしたのだ、詩紋」

「あっ、無理して起き上がらないでいいですよ!」

 慌てて止めようとする詩紋が駆け寄るより先に、す、と前に出た頼久が、泰明が起き上がるのを手伝う。

「すまない、頼久」

「いえ、お気になさらず。少しでもお辛いようでしたらどうぞこのままで」

間近で見上げながら礼を言う泰明に、頼久は口元だけで僅かに微笑んで、

泰明の細い背に腕を回し、後ろから抱くようにして支えた。

 少し病みやつれている所為か、常より一層華奢で儚げに見える泰明が、凛々しくも逞しい頼久の腕に抱かれている。

 まるで、美しい姫と姫を守る騎士のようだ。

「詩紋?」

 訝しげに泰明に名を呼ばれ、ふたりの姿に見入っていた詩紋は、我に返ったようだ。

 その瞬間、詩紋の白い頬に、さっと朱が走る。

 同時に通り過ぎた彼の表情には、泰明への憧れと、頼久への僅かな嫉妬と羨望が滲んでいた。

 それを頼久は静かに見詰める。

 一瞬後、詩紋は元の優しく気遣わしげな笑顔となって口を開く。

「泰明さんのお見舞いに来たんです。倒れたって聞いて、僕心配で…」

「そうか。この通り大事ない。心配を掛けてすまなかった」

「いいえ」

 穏やかに詩紋と言葉を交わす泰明は気付いてはいまい。

 詩紋の変化に気付いたのは、頼久だけだ。

「あの、僕プリンを作ってきたんです。

まだ、食欲が無いって頼久さんから聞いたんですけど、プリンだったら消化が良いって聞くし、

泰明さんも好きだから、少しは食べられるかな、と思って」

「ぷりんか」

 甘いものの好きな泰明の色違いの瞳が微かに煌く。

 詩紋が胸に抱いてきた紙袋からプリンを取り出そうとする様子に、僅かに身を乗り出そうとする。

 そして、ふと気付いたように傍らの頼久を大きな瞳で見上げた。

「頼久。もう支えてもらわずとも良い。有難う」

「分かりました」

 急に幼い雰囲気となって、そわそわと言う泰明に、こみ上げる笑みを噛み殺しつつ、頼久はそっと腕を離す。

 出来ればずっと抱いていたいというのが正直な気持ちだったが、泰明の言葉に逆らうつもりはない。

「美味しそうだな」

「これなら食べられそうですか?」

差し出されたプリンを見て、泰明は嬉しそうに僅かに目を細め、詩紋の問いに、こくんと頷く。

「良かった。それじゃあ、はい、どうぞ」

 用意周到に持参してきたスプーンと共に、詩紋は笑顔でプリンの器を泰明の手渡す。

「有難う、詩紋」

 無邪気な笑顔で、器を受け取るのを見計らって、頼久は腰掛けていた泰明のベッドから立ち上がる。

「茶を持って参ります」

「すまない、頼む」

「あっ、お茶だったら僕が…」

 日頃、頼久に面倒を看てもらうことに慣れている泰明は、素直に頷くが、詩紋は戸惑った反応を見せる。

 そんな詩紋に、頼久は微笑んだ。

「お前は客人だろう。客人に茶を出させる訳にはいかない」

「でも、そんな…僕は客人なんて大したものじゃないのに…」

「お前は泰明殿の話し相手になってくれ。せっかく来たのだ、ゆっくりしていくといい」

 複雑な面持ちで頷く詩紋を尻目に、頼久は部屋を出て行った。

 

 

 少し時間を掛けて茶を淹れて、戻ってきた頼久は、泰明の部屋に入る手前で聞こえてきた話声に、思わず耳を傾ける。

「駄目だな、私は…まだまだ修行が足りない」

 溜め息混じりの泰明の言葉。

「そんな…!それでも、泰明さんはきちんとお仕事したんでしょう?凄いですよ!」

 慰める詩紋の言葉に、頼久はふたりが一週間前の除霊の件について話していることを悟る。

「しかし、怨霊の邪気に中てられて倒れてしまうなど…

幾らそれが初めて接する類のものだったとしても、上手く受け流さねばならなかったのだ。それなのに…」

「きっと次は大丈夫ですよ!」

 詩紋の元気付けるような言葉に、泰明が一瞬沈黙する。

 恐らく、泰明は詩紋の言葉を怪訝に思い、細い首を傾げて、瞬きをしているだろう。

 そのことを証明するように、低くも澄んだ泰明の声が問いを発した。

「何故だ?」

「だって、次に似たような邪気を持つ怨霊に出会ったとしても、泰明さんはもうその邪気を知っているでしょう?

知っているなら、現代にやってきても、京にいた頃と変わらず、修行を続けてる泰明さんだもの、もう倒れたりしませんよ。

泰明さんは負けたりしません。僕は、そう思います」

 詩紋の明るい声が優しく響く。

「有難う、詩紋……そうだな、もう負けはせぬ」

 そう応える泰明の声も、優しく和らいでいた。

 そこまで話を聞いたところで、頼久は扉を開けた。

「茶を持って参りました」

 頼久が現れると、詩紋は、はっとして、泰明の細い手を握っていた手を引いた。

 そうして、頼久を見上げ、すぐに目を逸らして、気まずげな表情で黙り込む。

 何の後ろ暗さもない泰明は、真っ直ぐに頼久を見上げて言った。

「有難う、頼久。では、詩紋のぷりんを食べよう」

「私が茶を持ってくるのを待っていたのですか?先に召し上がっていて良かったのに」

「皆で共に食べた方が美味い。茶があると更に美味い」

「そうでしたか…お待たせして申し訳ありませんでした」

「大丈夫だ。問題ない」

 詩紋の様子に気付かない振りを貫いて、頼久は微笑んで泰明と言葉を交わす。

 さあ食べようと、無邪気に泰明に促され、詩紋は何処かぎこちなく微笑んで頷いた。

 

 

 今まで殆ど食欲の無かった泰明だったが、詩紋の作ったプリンを半分ほど食べることができ、詩紋は良かったと喜んだ。

 それから、また少し三人で話をして、夕方になると、また来ると言葉を残して詩紋は去っていった。

「泰明殿。もうお寝みになられたら如何ですか」

 先程から、ゆっくりと重たげな瞬きを繰り返す泰明に、頼久がそう勧める。

 ベッドの上に身を起こしている泰明の顔を覗き込むと、薄く滑らかな瞼は半分ほど閉ざされ、

辛うじて開いている瞳も、けぶるような長い睫が、殆ど覆い隠していた。

 頼久の勧めに、泰明は子供のように素直にこくんと頷き、ベッドに身を横たえる。

 頼久がさり気なく腕を伸ばし、若干覚束なげな動きを助ける。

 少しずれてしまった枕を直し、捲れてしまった上掛けを整えている間に、泰明はすっかり眠りに落ちていた。

 大きくはないが、規則正しい寝息に、頼久は安堵の息を吐く。

 しかし、肌理細かな頬はまだ白く、元の桜色を取り戻すには、あと二三日は掛かるだろう。

 

『きっと次は大丈夫ですよ!』

 

 ふと、そう詩紋が泰明に言った声が耳に甦る。

 

『泰明さんは負けたりしません』

 

 詩紋は決して、泰明が危険な怨霊に対峙することを止めさせようとはしない。

 それが他ならぬ泰明自身の望みだからだ。

 故に、その身を案じることはあっても、彼の望みを絶つようなことはしない。

 彼の力を、彼の心を信じ、精一杯見守り、助けが要るときは精一杯助けになろうとする。

 それが詩紋の優しさだ。

 

(だが、私は…)

 頼久は知らず、凛々しい眉を苦しげに寄せる。

 彼の力量を、意志の強さを信じていない訳ではない。

 しかし、できるだけ彼を危険から遠ざけたいと思ってしまう。

 このように、倒れてしまうことがあれば、尚更その想いは強くなる。

正直なところ、もう二度と泰明には厄介な怨霊の相手をしないで欲しいと思っている。

そうして、いつでも自分の手の届くところに彼を置いて、あらゆる邪悪と罪からその無垢な身を守りたい。

 無論、泰明はそのようにただ守られることを望まないだろう。

 詩紋のように、自分の意志を否定せず、信じてくれることをこそ、彼は望んでいる。

 詩紋の言葉に応えた泰明の声音からもそれは充分に伝わってきた。

 だから、自分の想いを頼久は口にしたことがない。

 これからも、恐らく口にしないだろう。

 

 頼久は静かに眠る泰明の上に屈み込む。

 微かにベッドが軋んだが、深い眠りに囚われた泰明は目覚めない。

 

(だが、私は…)

 自分は恐らく、泰明の望みどおりに振舞うことはできない。

 再び自分の目の届かないところで、泰明が害されるようなことがあったらと考えるだけで、気が狂いそうなのだ。

 

 静かに穏やかに眠る泰明。

 息をするごとに微かに揺れる長い睫に縁取られた白い瞼に誘われるようにして、指を伸ばす。

 指先に危うい滑らかさが触れた。

(もし…)

 同時に危うい思い付きが胸を過ぎる。

 

 …もし、泰明のこの、あらゆる時空さえも見通すかのような美しい瞳から光が失われたら。

 そうすれば、自分は彼の目となり、一生その傍にいられる。

 自分の与り知らぬところで、彼が傷付くことはなくなるのだ。

 

 …いや。

 例え、目が見えなくなろうとも、彼は誰かに依存することを良しとはしない。

自ら行動することを止めはしないだろう。

 ならば、どうすればいい?

 

 常ならば、目を逸らしていられる胸の奥の闇。

 そこに不意に灯った火に、頼久は囚われていた。

 

 目の前で無防備に横たわる清らかに美しい泰明。

 その姿に半ば見惚れながら、頼久は瞼に置いた指をそっと下げていく。

 通った鼻筋を辿り、ふっくらと柔らかな唇に、触れているのが分からぬほど、淡く触れていく。

 そうして、ほっそりと白い首筋に辿り着いた頼久の手がそこで止まる。

 頼久の片手で充分覆い尽くしてしまえるほど、細い首筋。

 

 この手に力を入れれば、もう不安に思うこともなくなるだろうか?

泰明は誰の手にも傷付けられることなく、誰の手にも奪われることもなくなる。

永遠に、自分の手の内に止めておける。

 

「…頼久?」

 

 ふいに目覚めた泰明が呼ぶ声に、頼久は現実に引き戻される。

 火傷をしたかのように伸ばした手を引く。

「どうしたのだ…?」

 しかし、半覚醒の状態なのか、泰明は頼久の異変に気付かず、

ただ、間近に彼がいることのみを訝しんで訊ねるのに、頼久は首を振って応えた。

「いいえ、何でも御座いません。申し訳ありません、お起こししてしまいましたね」

 頼久の謝罪に、泰明は緩慢な仕種で首を振る。

「お前も早く寝むと良い。ずっと私の世話に掛かりきりで疲れているだろう。すまない、お前にはいつも迷惑を掛けている」

「迷惑だなどと…そのようなことは御座いません。私は望んで貴方のお世話をさせていただいているのですから」

 それだけはきっぱりと言葉を返すと、泰明は暫し沈黙する。

 そうして、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。

「有難う、頼久…」

 呟くように言う泰明の頬が、僅かに上気して薄紅に染まる。

 淡い微笑みを浮かべたまま、泰明は再び眠りに引き込まれていった。

 今、目の前にいる男に対して、全幅の信頼を置いていることが伝わる無邪気な笑み。

 突如として、泰明への愛おしさと罪悪感とが頼久の胸の中で鬩ぎ合い、胸が張り裂けんばかりに痛んだ。

 頼久は苦痛を耐えるように、先程よりも強く眉根を寄せた。

 それでも、離れてあることなど耐えられないのだ。

 例え、本当にこの胸が、この心が裂けたとしても。

 いつか、彼の首に掛けた手に力を込める日が来るとしても。

 

 こんなことを身勝手に願う自分は、最も泰明に相応しくない男かもしれない。

 

 自嘲しながら、顰めた眉根を開いた頼久は、再び泰明の上にそっと身を屈める。

 別世界に眠る泰明の白い瞼に、誓うように口付け、囁く。

 

「…それでも、私は貴方だけのものです」

 


「いぬのきもち」(違)。
元ネタは、L'○rcの『Taste of love』という曲(インディーズの頃の曲だよ…/笑)です。
「この詞は、ダークなよりやすとして聴くと、なかなかときめくんじゃねえの?」と常々思っておりました。
どの辺りが、頼久かといえば「You treat me like a dog…」というところで(犬だし/笑)、
どこら辺がダークかといえば「たとえばあなたの目が見えなくなれば 私が目となり一生そばに居られるのに」
「あなたの罪なら私が罰を受けよう 誰かを殺めて欲しければ殺めよう」というところです(どんだけダークなのか…/汗)。
書き終えてみたらば、このネタのほんの一部しか、生かせていないというオチ(汗)。
また、切っ掛けがよりやすであったが為に、ライバル(?)詩紋の影が薄くなってしまったような…(更に汗)
寡黙な頼久と、優しい詩紋では、正面切ってやっすんを奪い合うという情況にはならないと思うのですよね。
代わりに、それぞれの内面を描こうとちょっと頑張ってみました。
優しさは失わないながらも、ふとした瞬間に嫉妬など負の感情を滲ませてしまう詩紋とか。
感情を抑えることに慣れているものの、実はその内に、ダークな部分を抱えてる頼久とか、頼久とか…(笑)
まあ、詩紋の優しさとやっすんの無垢さを対比させることで、
頼久の抱える闇をより際立たせることは出来たんじゃないかな、一応…(?)
やっすんの純粋無垢さが、救いです…!(笑)

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