天使の羽
「空が近いな」
ビルの屋上へ出た泰明がそう言った。
それほど高いビルではない。
高層ビルが林立する昨今、ここよりもっと高く、空に近い場所は幾らでもある。
しかし、泰明がそう言うと、この場所以上に、空に近い場所はないのではないかと思えてくる。
白い雲が泳ぐ明るい青空の下。
「そうだね」
友雅が同意すると、泰明は無邪気に微笑む。
陽射しに溶けて、輝くような笑み。
友雅から、す、と離れて、歩を進めた泰明は、屋上の真ん中で立ち止まる。
「もうすぐで空に届きそうな気がする」
真上にある空を見上げ、確かめるように白く細い腕を伸ばした。
白い雲が泳ぐ明るい青空の下。
その無垢な腕は、本当に空に届いてもおかしくないように思えた。
自分には届かない、遠い空に。
泰明の華奢な姿が明るい陽射しに包まれている。
友雅は、ふと、瞬きをした。
泰明の真っ直ぐ伸びた細い背に、白く透き通る羽が見える。
空に舞い上がる天使の羽だ。
その翼がふわりと広げられ…
…風が通り過ぎた。
「友雅?」
腕の中から聞こえた泰明のやや驚いたような声に、友雅は我に返る。
目に見えない透明な腕に引かれ、風に背の翼を煽られて、今にも、泰明が飛び立っていってしまいそうに見えたのだ。
自分には届かない遠い空、その彼方の世界に。
そんな一瞬の幻想に捕らわれ、気付けば、この場に繋ぎ止めるように、その細い身体を背中から抱き締めていた。
「どうしたのだ?」
腕の中で、泰明が訝しげに首を傾げている。
こうして、彼のほっそりと柔らかな身体の感触を直に確かめていても、幻想の名残は去らずにこの胸にある。
彼はいつか、この腕の中から飛び立つのではないか。
そうして、自分は独り残される。
彼と共にある幸福を知った今、彼のいない孤独を思うと、どうにも堪えがたい。
だが、そのときに、彼の羽を切り、腕のなかに閉じ込めて、その自由を奪う権利は自分にない。
それでも抱き締めた腕を解けぬまま、泰明の顔を見ずに、友雅は問う。
「この空の向こう側に行ってみたいと思うかい?」
「そうだな。どんな世界があるのか、こことはどう違うのか、興味がある」
友雅の複雑な心境には一向に気付かぬ様子で、泰明は素直に頷く。
「…そう。きっと行けると思うよ、君ならね」
友雅がそう言うと、泰明はくるりと身体ごと振り向いて友雅を真っ直ぐ見詰めた。
「友雅は行かないのか?」
「え?…そうだね、行けるものなら行きたいけれど…」
少々面喰って答えると、泰明は色違いの瞳を輝かす。
「そうか。ならばいつか、共に行こう」
「……」
いつか、共に。
そんなあっさりとした言葉に、胸に蟠る不吉な幻想が跡形もなく吹き払われていく気がした。
泰明を見詰め、ゆっくりと微笑み返す。
「そうだね、一緒に行こう」
「楽しみだ」
嬉しそうに頷く泰明の澄んだ瞳に、空が映り込んでいる。
その青い空の中心に自分の姿があることに気付き、友雅は笑みを深くする。
先ほどとは違う満ち足りた気持ちで、再び目の前の細い身体を抱き締める。
白い雲が泳ぐ明るい青空の下。
この手に触れる泰明の華奢な背には、天使の羽がある。
時折しか目に見えず、手に触れることも出来ないが、どんな世界へも自由に飛び立てる可能性を秘めた羽だ。
今の自分にはない羽。
しかし、彼と共にいれば、いつか、自分の背にもこの羽が宿るかもしれない。