凉音
「だぁーッ!!もう分かんねえ!!」
イノリは手にしていたシャープペンを机の上に投げ出し、椅子の背凭れに寄り掛かった。
顔を仰向け、大袈裟に両手で頭を抱えたところで、コンコンと部屋の扉をノックする音が響く。
「イノリ。勉強の調子はどうだ?」
茶と菓子を持って来たぞ、と淡々と言いながら、綺麗な恋人が扉を開けて入ってきた。
「おおっ、ちょうどいいところに!助けてくれよ!泰明大明神様!!」
「…何のことだ?」
勢い良く振り返り、両手を合わせて拝む仕種をすると、泰明は僅かに柳眉を寄せた。
「分からないというのは何処だ?」
「ここだここ。ここがどうしても分からねえんだよ。ここが解ければ、一区切り付くんだけどさ…」
「ああ…これは……」
そうして、分からない問題の解き方を教えて貰いつつ、何気なくイノリは傍らを見る。
泰明は長い睫毛を伏せて、机の上に開いた問題集に目を落としている。
柔らかく色付いた花弁のような唇が動いて、言葉を紡ぐ。
その唇から零れる声音が、耳に心地良い。
低いけれども不思議なほど澄んでいて涼やかで。
ふと、その清しい声音が甘く響く瞬間を思い出す。
思わず、動悸が早くなったところで、
「イノリ。聴いているのか」
「わりぃ!」
厳しい教師の声に咎められ、イノリは肩を竦め、慌てて机に向き直った。
「助かったぜ!ありがとな!泰明!!」
「問題ない」
その後は泰明に教えられながら、集中して問題に取り組んだお蔭で、
イノリは泰明が持ってきたお茶が冷める前に、躓いていた問題を解くことが出来た。
そこで一息吐いて、泰明が持ってきた紅茶とケーキをふたりで食べる。
自分で買ってきたチョコレートケーキを泰明は、実に美味しそうに食べている。
その様子は、微笑ましいほど可愛らしく見えた。
つい先程イノリに勉強を教えていたときとは大違いだ。
勉強嫌いのイノリが大学への進学を決めたとき、泰明は少し驚いた顔をした。
だが、すぐにイノリが決めたことなら、と躊躇いなく頷いた。
それからは、暇を見付けては、こうして様子を見に来てくれたり、勉強を教えてくれたりする。
自分だって仕事で忙しいだろうに。
しかし、気を遣わなくていいと言うと、泰明はいつも首を振って、自分はやりたいことをやっているだけだと応えるのだ。
その気持ちが有り難く、嬉しい。
だから、諦めずに頑張ろうと思う。
大学に進学して、もっと自分の視野を広げ、進むべき道を見付ける。
その道は自分ひとりで進む道ではない。
泰明とふたりで進む道。
それまでは、高校を卒業したらすぐに働きたいと思っていた。
しかし、それでは駄目なのだと気付いた。
既に有能な医者として活躍する泰明と、まだ学生で就職したことも無い自分。
背はとっくに泰明を追い越して、体格も細身の泰明に比べれば立派になったが、中味はまだまだだ。
もっともっと器の大きい人間にならなければ。
せめて、生き生きと働いている泰明に相応しい人間になりたい。
だから、進学を決めた。
これからもずっと泰明と生きていく為に。
ふと気付くと、ケーキを食べ終わった泰明の口元に、ちょんとクリームが付いている。
「泰明、付いてんぞ」
ここここ、と自分の口元で指差して示してやると、泰明は生真面目にそれを見て、
片手で紅茶のカップを持ったまま、反対側の口元を拭おうとする。
「何やってんだよ、逆だよ逆」
笑いながら、イノリは身を乗り出し、気付いた泰明が自分で拭う前に、そのクリームを舐め取った。
ケーキよりも何よりも泰明の唇が美味しそうに見えたので。
思っていた通り、それはクリームよりも甘くて柔らかかった。
くすぐったいのか、それとも少し照れているのか、泰明は白い頬を僅かに染めて、くすくすと笑っている。
澄んだ笑い声。
それが可愛らしくて愛しい。
その唇から零れる声が好き。
普段話している声も、こうして笑っている声も。
もちろん、好きなのは声だけではないけれど。
これからもずっとこの声を聴こう。
幸せそうな笑顔を見よう。
…幸せにしよう。
密かな誓いを篭めて、もう一度軽くキスをした。
ぷち七葉制覇其の三は、いのやすです。 一年振りだよ!(笑) 今回はイノリ18歳、やっすん21歳(外見)の設定で書いてみましたよ。 ちなみに、やっすんは年取らないのです(笑)。 書いているうちに、何だか新婚っぽい雰囲気に。いいご身分だな、イノリよ!(笑) イノリを書くときは、天真と被らないよう気を遣います。 イノリは天真より賑やかで、子供っぽい感じ?…に、なってるかなあ(苦笑)。 そして、またタイトルで苦しみました。 「涼音」で「すずしね」。何だこのタイトル(汗)。 一応、やっすんのお声を例えた言葉なのですが(自作…)。 戻る