香清か   

 

その者はいつも涼やかな秋の花を思わせる香を纏う。

その香りに誘われて、初めて姿を見たのは何時のことだったか。

 

「雷牙よ。何を隠れておる」

「か、隠れておる訳ではないわ!」

北山を中心としてこの辺り一体を取り仕切る大天狗に、気配を悟られ、

北山の天狗、雷牙は口答えをしつつも、おとなしく木の影から出る。

その様を横合いから静かに見つめる透明な眼差し。

「雷牙よ。おぬし、また、山を降りて悪戯をしてきたのではあるまいな」

「人間なぞ、多少困らせたとて構わぬだろう」

威勢良く応えつつも、どこかそわそわして傍らの人物を見遣る彼に、大天狗は笑みを零す。

「雷牙。泰明が気になるか?」

「泰明?泰明というのか」

その名前を噛み締めつつ、雷牙はやっと件の人物をまともに見た。

その相手は自分が話題にされていることを全く気に掛けていない様子だ。

ただ、無表情で雷牙を見つめ返す。

 

北山の濃い緑の中にあっても鮮やかな翡翠色の髪。

一分の隙もないほど整った白く秀麗な面立ち。

目の前の大天狗ほどではないが、雷牙もかなりの年数を経た大妖である。

しかし、これほど美しい容姿の者は、ひとでも、あやかしでもついぞお目に掛かったことがない。

顔の半面を青白く覆う痣のようなものと左右色が違う瞳が、唯一の汚点と言えた。

だが、その不均衡が、却ってその人物の麗しさを引き立てて、目が離せない。

更に、雷牙を捉えて離さないのは、その者の纏う香りだ。

人間が好んで使う香を身に纏っているようだが、それだけではない。

恐らく、この泰明という者が生まれつき纏っている肌の香りが、

人工の香と混ざり合い、強烈に雷牙を惹き付ける薫香となっているのだ。

 

さわり、と木々が風に揺れた。

 

すると、目の前の片結いにされた翡翠色の髪もさわり、とささめき流れ、再び彼の香りをこちらに届けてくれる。

自然鼓動が速くなるのを隠すように、雷牙は必要以上に大きな声で目の前の麗人に話し掛ける。

「泰明と言うたな。お前、人間か?それにしてはこの北山の霊気に馴染み過ぎる」

「……」

「何を黙っておる。儂の訊いたことに応えんか!」

「それくらいにしてやれ。泰明はまだ会話というものに慣れてはおらぬ」

笑いを噛み殺しつつ、大天狗が鷹揚に口を挟む。

言葉を紡ぎながら、大きな手で泰明の頭を小さな人間の子供にするように撫でてやっている。

泰明は不思議そうに目を瞬いていたが、やがてなされるがまま、瞳を閉じた。

伏せられた翠色の睫が長い。

随分と無垢な様子に毒気を抜かれ、雷牙は大天狗に尋ねる。

「大天狗よ。こやつは人間なのか?それとも…」

「さて。人間であるとも、人間でないとも言えるであろうな。今はまだ。

どちらになるかは、いずれ本人が選び取るであろうよ」

「訳が分からぬぞ」

盛大に眉を顰めた、まだ若き天狗の素直な反応に、大天狗は笑う。

「お前が出会ったばかりの者にここまで興味を持つのは珍しいな。さては惚れたか?」

「ばっ、そんな訳がなかろう!!」

雷牙は向きになって否定したが、一瞬で赤くなった顔が、それを肯定していた。

「はははは!おぬしも若いのう。しかし、泰明は手強いぞ。覚悟しておけ」

「違うと言っておる!!」

 

 

それが出逢い。

 

その後も泰明は大天狗に会いに北山へと来ていたが、雷牙と言葉を交わすのはもう少し後のことになる。

清かな薫香に惹かれるまま、来てみればやはり、泰明がいつものように大天狗の棲む大木の根元にやって来ていた。

しかし、目当ての天狗は留守であるらしく、泰明は地を這う大樹の大きな根元に抱かれるように座り込んでいた。

「何だ、泰明か。大天狗の帰りを待っているのか?」

応えが返ってこないのを承知していても、声を掛けずにはいられない。

「あやかしを退治するが役目の陰陽師が、そのあやかしの棲家をこう頻繁に訪れても良いのか?…っと」

大きな声で話し掛けながら、大股に泰明の方へと近付いた雷牙は、慌てて口を噤む。

泰明の瞳が閉じられている。

森の気に同化して、殆ど聞き取れないささやかな呼吸の音。

どうやら眠って?いるようだ。

「全く、大した神経よ」

こんなところで昼寝とは。

雷牙は腕を組んで、泰明を見下ろしつつ、小さな声で呟く。

見張りと言う訳ではないが、雷牙はそのままそこに腰を下ろした。

空気が動き、一瞬泰明の花のような香りに包まれる。

半ば酩酊の心地となりながら、雷牙は泰明に見入る。

 

こうして近くで見ると、泰明の身体つきが思いの他、華奢であることに気付かされる。

きっちりと整えられた襟元からすんなりと伸びた首筋も、たっぷりとした袖から覗く手首も、

片手で容易く折ってしまうことができそうなほど細く頼りない。

少々きつめに帯を締めた腰もこちらの片腕が楽々と回りそうな細さ。

力を抑える呪いだという痣の所為で半分色合いが異なる白い肌は、

それでも、絹のような滑らかさを想像させる肌理の細かさと張りである。

ほんの僅かに血の色を滲ませる頬と目尻が、何とも胸を騒がせる色合い。

それらよりも濃く色付いた唇は、花びらのように柔らかな形で、熟した果実のような艶やかさだ。

 

鼻腔をくすぐる香に導かれるまま、いつの間にか、雷牙は肌が触れ合いそうなほど間近で泰明の顔に見入っていた。

しかし、そうと気付いたところで、内心に湧き起こった衝動は止められない。

 

この唇は実際にはどんな感触をしているのか。

どんな味がするのか。

 

どうしようもなく、確かめてみたい気持ちになって、雷牙は大胆にも、眠ったままの泰明に口付けようとした。

今しも、その唇に触れるかと見えたそのとき。

ふ、と泰明の滑らかな瞼が動いた。

彼に顔を近付けたまま、雷牙は息を呑む。

 

花が…開いたかと思った。

 

泰明は澄んだ翡翠と黄玉の瞳を瞬かせ、口を開いた。

「何をしているのだ、天狗」

真っ直ぐな視線に捉えられた為か、或いは、触れ合う間近で柔らかな唇が動くのを見た為か、

自分でも分からぬままに雷牙は、背中の羽根を慌しく羽ばたかせながら、大きく跳び退る。

次いで、我に返って自分の行動を思い起こし、火を噴きそうなほど真っ赤な顔色となった。

「…なっ、なっっ…なっ…っ!!」

「何を焦っている」

動揺する雷牙が分からないのか、泰明は怪訝そうに彼を見詰める。

「…お、お前こそ、何をへいちゃらな顔をしておる?!!」

男が無断で身体に触れようとしたのだ。

怒るまではいかなくとも、もう少し、動揺しても良いのではないか。

雷牙の八つ当たり気味の叫びにも、泰明は一向に落ち着いた表情を改めない。

ただ、話の不可解さに僅かに眉根を寄せただけだ。

「おお〜、儂は〜、儂は〜今何をしようとしたんじゃああ〜〜っ!!」

「天狗はうるさいな」

泰明に八つ当った後、己の頭を抱え込んでわめく雷牙に、淡々とした言葉を放ってから、

泰明は立ち上がって先程まで寄り掛かっていた大樹を見上げた。

柔らかく差し込む木漏れ日に目を細める。

「そろそろ刻限だ。帰る」

「待てい、泰明!!」

くるりと背を向けた泰明を、少し落ち着いたらしき雷牙が呼び止める。

「何だ」

律儀に振り向く泰明。

また、ふわりと心惑わす香りが漂って、雷牙は次の言葉をなくす。

「用がないなら、戻るが」

「…い、いや!用ならばある!良いか、泰明。儂には雷牙という名がある!!」

「知っている」

「ならば、何故儂を「天狗」と呼ぶのじゃ?!」

そうして、他の天狗と一緒くたに呼ばれるのは気に喰わない。

そう思っての抗議だったが、泰明は平然とそれを躱した。

「名には呪力がある。

例え、それが真名ではないとしても、それがお前を表すものである限り、それは多少なりともお前を縛る呪となる。

故に、信頼できる者以外にはその名を頻繁に呼ばせぬ方が良い。特に、私のような陰陽師には」

「…いつか、お前が儂を調伏するときが来るかも知れぬと?」

「依頼があれば」

「依頼さえあれば、お前は迷わず儂を調伏するのか?」

「そうだ。何故、迷わねばならぬ?それが私の仕事。私の役目だ」

「………」

「天狗?」

こうまではっきり断言されると、流石に傷付く。

思わずがっくりと肩を落とす雷牙に、泰明は首を傾げる。

彼は事実そのままを言っただけであり、悪気は全くないのだろう。

「…もう、良いわ。帰りたいならさっさと帰れ」

「分かった。では」

徐々に遠ざかっていく細いながらも凛とした後ろ姿を見送りながら、雷牙は深々と溜め息をついた。

 

 

泰明は己の言ったことを違えなかった。

貴族の依頼を受けた泰明は、嵯峨野で暴れ回っていた雷牙を問答無用で封じたのである。

そして、今。

雷牙は力を封じられ、全くもって不本意な姿となっている。

しかし、元々深く考え込む性質でもなかったので、今の状況にも大分慣れた。

龍神の神子だという少女に「小天狗ちゃん」と呼ばれ、

彼女が世話になっている左大臣家の女房たちに可愛がられるのも、なかなか悪くはない。

もちろん、元の姿に戻ることを諦めた訳ではないし、泰明と会う度に交渉(?)もしているのだが、

泰明は一向に雷牙を元に戻す気はないらしい。

 

「…むっ、この匂いは!」

その日の神子の文遣いを終え、簀子で惰眠を貪っていた雷牙は、花よりも芳しい香りに目が覚めた。

これは泰明の香りだ。

香りの導くまま、邸内を飛んでいくと、その香りに混じって、微かに血の匂いがした。

「…?!」

不安を憶えて、速度を上げると、慌しく部屋から出てきた神子と正面衝突しそうになる。

「わっ!ごめん、小天狗ちゃん!!」

「どうしたのじゃ、あかね!」

「さっき、泰明さんと怨霊退治に出掛けたんだけど、そのときに泰明さんが私を庇って怪我しちゃったの。

早く手当しないと」

「騒ぐな、神子。ただの掠り傷だ。手当など必要ない」

「そんな青い顔して何を言ってるんですか?!お願いですから、手当するまでおとなしくしてて下さい!

小天狗ちゃん、悪いけど、泰明さんが無茶しないように見張っててくれないかな?」

そう言い捨てて、神子はばたばたと簀子を駆けていった。

雷牙は泰明の声が聞こえた部屋の中へと入る。

泰明は入口のすぐ脇に、端然と座っていた。

しかし、背後の柱に半分身体を預けている。

神子の言っていたとおり、顔色もあまり良くない。

「…泰明、大丈夫か?」

「たいしたことはない。神子も他の皆も大袈裟なのだ」

「お前のその言葉は当てにならんな」

泰明は己が無茶をしていることに気付かない性質なのだ。

そのことを、雷牙はもちろん、神子も他の八葉たちも知っている。

だからこその、先程の神子の慌て振りだった訳だ。

「しかし、お前が怨霊退治で怪我など…お前でも不覚を取ることがあるのだな」

「二度目はない。次はこのような失態はしない」

ややからかい気味に言ってみると、ほんの少しだけ悔しげな響きを持った言葉が返ってきた。

泰明は見掛けに寄らず、負けず嫌いでもあるのだ。

あまり、無理をさせてはいけないと、雷牙は口を噤んだ。

暫しの沈黙。

神子はまだ戻って来ない。

泰明は座ったまま瞳を閉じていた。

「泰明?」

「……」

返事はない。

傷が痛むのだろうか。

雷牙はそっと泰明に近付く。

「怪我をしているのは腕か…」

呟いて、泰明を見上げる。

今の自分にとって、彼は何倍も大きいのに、儚げな印象は変わらない。

澄んだ両の瞳を隠す白い瞼。

その縁を彩る長い睫が僅かに震えている。

 

もどかしいと思った。

 

今のこの身体では、目の前の華奢な身体を抱き締めることも叶わない。

彼を傷付ける者から守ることも出来ない。

このときほど、自分の小さな身体が恨めしく思えたことはなかった。

 

清かに漂う秋の香。

泰明の香り。

 

導かれるままに、雷牙は静かに羽根を羽ばたかせ、艶やかな唇にそっと口付けた。

初めて触れた唇は、思っていたよりもずっと柔らかく、甘かった。

そのとき、ふいに泰明がぱちりと目を開く。

「天狗」

「な、何じゃ?!」

間近で大きな瞳に見据えられ、思わず動揺してしまう。

「今のは何だ?」

「何だと?…お前、口付けも知らんのか?」

「くち…?聴こえぬ。もっと大きな声で言え」

「い、言えるか!!」

「何故だ」

そんな押し問答を繰り返しているうちに、慌しい足音が戻ってくる。

神子ひとりのものではなく、複数の足音だ。

「泰明さん、待たせてごめんなさい!」

「怪我したんだって?!大丈夫か!!」

「無理しないで横になったほうが良いよ」

案の定、神子の後ろには薬を携えた女房の他に、八葉の天真、詩紋がいて、

部屋に入ってくるなり、泰明の世話を焼き始めた。

幸いにも、今回の泰明の怪我は本人の言ったとおり大したものではなく、緊迫した空気はすぐに和んだ。

しかし、その後も、神子からの知らせを受けたらしき他の八葉が続々と現れ、傷を負った泰明を気遣い、世話を焼く者の輪に加わっていく。

当然ながら、雷牙の入る隙間など全くない。

お蔭で、泰明の質問攻めから解放された訳だが。

雷牙はほっとしたような、残念なような複雑な気持ちで、皆に囲まれ、やや戸惑った様子でいる泰明を眺めた。

 

流石に今はもう、泰明への想いは自覚している。

問題はそれを、口付けさえも知らない泰明にどう伝えるかだ。

しかも、泰明は無自覚に周りの者を惹き付ける。

このように泰明が皆に大事にされているところを見ていると、一層焦りを憶えてしまう。

こうなれば、一刻も早く、元の姿に戻りたいものだが……

封印を解けるのは、他ならぬ泰明のみ。

その彼に、いつの間にか、雷牙は本来の力のみならず、心まで縛られてしまっている。

「面白くないぞ」

悪態を付いたところで後の祭り。

果たして、芳しい香りを纏う彼をこの腕で抱き包むことができる日はやって来るのか。

それさえも、彼次第。

前途は多難である。

 

どさくさ紛れに口付けを得られたことを思い出し、緩む口元を引き締めつつ、ひとり考え込む雷牙であった……


『サクラスヰート』の小湊チアキ様から、リクエストを頂きました♪
もうひとつのてんやす、天狗×やっすんです。
書き終わった後に、リクエスト頂いた天狗って、
もしかして生みの親(?)の方の天狗だったかも?!と気付いて青褪めました……
如何でしょう、小湊様?こんな天狗でもOKでしたでしょうか…?(今更/汗)
一応、LaLa本編の展開に合わせ、小天狗○○の意味も込めて彼にしてみました…が、
果たしてこれで、彼が救われているのかどうか……(悩)

そんなこんなで、小天狗のどこかで見たような名前とやっすんと顔見知りだった過去を捏造です(笑)。
そして、忘れちゃいけない(?)やっすん魅惑ポインツは、花のような香りでひとつ!!
オフィシャル的にはそんな設定はありゃしませんが(笑)、
やっすんは菊花の香とは別の良いかほりを生まれつき持っているに違いない!!
…と葉柳は思い込んでおります(病)。
当サイト設定的には全く問題ない(元花の神様だし!/笑)。
…という訳で、今回は特に香りに焦点を当てて、彼の魅力を語ってみました。←?
いや、香りってね、他の五感に比べて、一番強く本能を刺激するものじゃないかと思うのですよ!
だから、雷牙(小天狗)もやっすんの香りに引き寄せられて、
フラフラと色々しでかしてしまった訳だね〜、他にもしでかしてる奴らはいそうですが(笑)。
小天狗は何となく、楽天的なイメージがあるので、ちょっぴりギャグ仕様なお話となりました。
あ、でもやっすん怪我してるからシリアス?…ギャグシリアスってジャンルはありでしょうか?(笑)
そして、初めて神子をまともに書きました(でもちょい役/苦笑)。
やっすんは神子をはじめ、他の八葉にもモテモテなのです!!(大いなる願望)

小湊様、リクエストをどうも有難う御座いました!楽しかったです♪
とんだ見当違いな代物かもしれませんが(汗)、こちらのお話は小湊様に捧げさせて頂きます!!
宜しければ、お納めくださいませ(平伏)。

最後までお話を御覧になってくださった方も有難う御座いました(平伏)。
これからも、やっすんらぶで突っ走る(苦笑)私めを温かく見守って頂ければ幸いです。

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