桔梗姫恋語〈暁光〉
それからも永泉の登楼は続き、桔梗もまた、その度に彼と共に夜を過ごした。
変わらぬ永泉の一途さに応えるように、桔梗は彼以外の客を己の部屋に招くことはしなかった。
やがて、宴の席でも垣間見えるふたりの仲睦まじさに、ひとつの噂がまことしやかに囁かれるようになった。
近いうちに、桔梗が永泉に望まれて身請けされるのではないか…と。
その噂は、妓楼の主である友雅にも届いていた。
永泉から桔梗の身請けを持ち出されたことはまだないが…
「そろそろ覚悟を決めるべきか…」
楼とは別に建てられた離れの自室。
知らず、唇から零れた言葉に、友雅はひとり苦笑する。
覚悟?一体何の覚悟だ。
全ては桔梗…泰明が決めること。
自分はただ、彼が望み、選び取った幸せを手にするのを見守り、自分の元から去るのを見送るだけだ。
あの優しく誠実な若者ならば、決して泰明を悲しませることなどしないだろう。
花街一の人気を誇る花姫が抜けるとなれば、妓楼の商売としては痛手だが、泰明の幸せを思えば何ほどでもない。
片隅に置かれた行燈ひとつきりに照らされた室内は暗い。
僅かに開かれた窓から、外の艶めいた灯りと楽の音を交えた人声が微かに流れ込んでくる。
桔梗は、今宵も宴に出ている筈だ。
旦那は永泉か、そうでなかったか…
初夜の日、偶然部屋にひとりでいた泰明と言葉を交わして以来、友雅は彼と顔を合わすのを避けるようになった。
宴の前の機嫌伺いに部屋を訪れる時も、扉越しに側仕えの者とのみ言葉を交わし、
特に最近では宴の最中には既に、こうして離れの自室に引き取るようになっていた。
ここでひとり過ごす夜は長い。
だが、気晴らしに外出する気にもなれない。
手慰みに書を読み、楽器を軽く爪弾いたりしてはみるものの、一向に気は乗らないままだった。
この夜、友雅は小刀を手に、木片から鳥の形を彫り出していた。
無心に手を動かしているつもりが、いつものように脳裏を占める面影に妨げられる。
「…っ!つぅ…」
滑った刃が、指を浅く傷付ける。
瞬く間に赤い血を滲ませる指を、口に含みつつ、友雅は苦い笑みを深めた。
「参ったな……」
これはかなり重症だ。
いったん手を休めて顔を上げる。
長い時間が経ったと思ったが、まだ夜は明けていないらしい。
だが、宴は終わったらしく、楽の音と人の声は絶えていた。
一晩中燈されたままの燈籠の灯りだけが、薄闇に染められた床に押し付けがましい彩りを添えていた。
ふと、戸口でかたりと小さな音がした。
続いて躊躇いがちに扉を手で叩く音。
妓楼の雇い人か。
最近、この時間帯の妓楼の切り盛りを任せきりにしていたから、何か問題が起こったのかもしれない。
友雅は指の血が止まったことを確認しつつ、立ち上がって扉へと近付いた。
「どうした?何か問題が…」
問いながら無造作に扉を開け、次の瞬間、言葉を呑んで立ち尽くす。
目の前にいたのは、艶めいた灯りに華奢な細身を包まれた桔梗…泰明だった。
今宵登楼した客は永泉ではなかったのだろう、きらびやかな宴の装いを解いた姿である。
身に纏う艶を抑えた濃紺の着物に散っているのは、青紫や白の桔梗の花。
金糸銀糸で細やかな繍をしている二藍色の薄布と翡翠の玉を通した青い飾り紐とで結われたほっそりした腰に、
同じ布と紐で簡単に結い上げられた艶やかな長い髪。
その結い目に一輪だけ咲き初めの桔梗の花が飾られている。
泰明の装いを目にして、友雅は、ようやく季節が移ったことを知る。
花妓としての通り名でもある花。
泰明は更に、花に降り注ぐ月光を思わせる金銀の箔を散らした白い紗の衣を、
着物を纏っても尚ほっそりして見える肢体にふわりと羽織って、
供も連れずにひとり、戸口に面した渡り廊下に佇んでいる。
まるで花精の化身のような清らかで艶やかな姿…見ることは叶わなくとも絶えず脳裏にあった姿に、
友雅は一瞬目を奪われ、しかし、彼と目線が合う前に視線を逸らす。
「…何をなさっているんです、桔梗姫。貴方はこのようなところへ来てはいけない。すぐにお帰りなさい」
固く厳しい声で突き放すように言うと、泰明が一瞬身を固くするのが分かった。
しかし、今夜の泰明は友雅の言葉に素直に従おうとはしなかった。
無言で首を振る気配。
やり場がなく、足元へと下りた視線が、彼の長い着物の裾を捉える。
幾重かの布の重なりの間から、僅かに爪先が染まった白い足指が覗いている。
妓楼の最も奥に位置する泰明の部屋から、この離れまではかなり距離がある。
それなのに、泰明は、そろそろ冷たくなってきた板床を、素足でやってきたのだ。
今までそのような無茶なことはしなかったのに。
そこで、友雅は少し口調を和らげる。
「仮にも花姫と呼ばれる方が、このようにひとりで男の元に訪れているところを余人に見られたら事だ。
話があるのなら、夜が明けた後に、改めて私が貴方のお部屋に伺いますから…」
だから、今はお帰りなさいと、諭すように言っても、泰明は頑なに首を振り続ける。
この調子で押し問答を続けていては、本当に人目に立ってしまう。
珍しく強情な泰明に根負けした友雅は、溜め息を吐いて身を引いた。
「…お入りなさい。今だけですよ」
その花の顔(かんばせ)をしかとは見ないまま、泰明を部屋に招き入れ、扉を閉める。
閉ざされた空間に、ふたりきりになった途端、息苦しいような緊張感が生まれた。
今、手を伸ばせば届くところに、泰明の細い身体がある。
真っ直ぐに見詰めてくる泰明の視線を感じる。
だが、友雅は泰明と目を合わせることが出来なかった。
目を合わせた瞬間、今まで抑えてきたものが堰を切って溢れ出してしまいそうな危うい予感に苛まれていたのだ。
一度溢れ出したそれは、今まで保ってきた全て…理性や決意、泰明への思い遣りさえ、押し流してしまいそうで。
…そんなことはできない。
してはいけない。
「…それで、私に何の御用でしょうか?…ああ、もしや…」
乾いた声で問うた友雅はふと気付いたように、泰明の応えを待たず、言葉を続ける。
彼の涼やかな声が耳に触れるのさえ、恐れていたのかもしれない。
「身請けのお話でしょうか?それでしたら、何もご心配なさることはない。
以前にも言ったと思いますが、どうぞ、桔梗姫のご自由に…」
「友雅は?」
ふいに耳に届いた泰明の問いに、友雅は言葉を途切れさせるが、気を取り直して答える。
「私のことは気になさらずに、とも言ったでしょう?大事なのは貴方の意思だ。私がどう思うかは関係ない」
「否。関係はある。友雅の応えを聞いてからでなければ、私は行き先を決められぬ。ここから一歩も動けぬ。
故に、こうして来た。お前の本当の気持ちを…私に対する望みを、どうしても訊きたいのだ」
「貴方が貴方の望むとおりにすることが、私の望みですよ」
「嘘だ」
「………嘘ではない」
「…嘘だ。友雅は私の問いに真に答えていない。本当だというのなら…何故、私を見ない?何故…こんなにも遠い…?」
問い詰める泰明の語尾が僅かに震えている。
他ならぬ自分が、このように泰明を悲しませている。
だが、友雅は湧き上がる様々な感情を押し殺す。
悲しませるのは、今だけだ。
今を通り過ぎれば、泰明は幸せになれる。
友雅はどうにか唇を開き、今までと何ら変わりない、問いをはぐらかす言葉を押し出す。
「…永泉様は、人柄も器量も優れた方です。身請け後も、今と変わらず、貴方を大事に慈しんでくださるでしょう」
「身請け…?私が身請けされることが友雅の望みなのか…?」
「…ええ。そうして、貴方が幸せになることがね」
「………」
泰明が俯く気配と共に、さらりと長い髪が衣を滑る音が微かに響く。
暫しの沈黙の後、目線を下げたままの友雅の耳に、小さな呟きが聞こえた。
「…嫌だ」
「桔梗姫?」
「嫌だ。身請けなど…ここから…友雅のいるところから離れるなど。私は…私は、友雅が良い」
「何を仰るんです…?」
訝しげに僅かに秀麗な眉を寄せた友雅の着物の袂を、縋り付くように、伸ばされた泰明の細い指が握り込む。
「先程、友雅は私の望むようにせよと言った。私はこれからもずっと友雅の傍にいたい。
花妓であるが故に、それが叶わぬなら、私は花妓でなくとも構わない。この身に触れてくれるのは…友雅だけで良い。
永泉でも…他の客でもない。友雅が良い。友雅でなければ嫌だ」
切迫した響きを持つ泰明の告白に、友雅は目を瞠る。
「私はきっと…友雅が好きなのだ。恋うているのだ…」
袂を握る泰明の指の震えが僅かに伝わってくる。
泰明はきっと、目を合わそうともしない卑怯な男の顔を、あの綺麗な瞳で真摯に見詰めているに違いない。
胸を刺し貫くような堪えがたい苦痛に、友雅は思わず顔を歪める。
それは、錯覚だ。
泰明は、養い親への慕情を、恋情と誤解しているのだ。
長い間、養い子に対して、劣情さえも抱いてきた自分とは違う。
嘲笑のような笑みが口元に浮かぶのを抑えられなかった。
「貴方は私に恋してなどいない。それは貴方の誤解ですよ、桔梗姫」
冷たい声に、泰明の細い肩がぴくりと震えるのを、目の端に映す。
「違う」
「違いませんよ。良くある勘違いだ。貴方の想いは、子が親を慕うそれだ。
貴方が私を恋うているなど…そんな筈はない。そのことは私が良く知っている」
きっぱりと否定しながらも、泰明の眼差しから逃げるように目を伏せる。
溜め息を吐いてみせながら、言葉を継いだ。
「もうこの話は止めませんか?身請けについては、貴方がどうしても嫌だというのなら、対策を講じましょう。
幸い、正式に申込のあったお話ではありませんし…」
「違う!!」
ふいに泰明から発せられた激しい声に、友雅の言葉が断ち切られる。
「勘違いではない!…この想いが、勘違いだと言うのなら、何故、こんなにも胸が痛いのだ…?
何故、疑う?…っ…迷惑だからか?」
「………」
切羽詰った様子で問い詰める泰明に、友雅は答えられない。
泰明の言葉に揺さぶられ、堪えてきた想いが、堰を突き崩さんばかりに、胸の中で荒れ狂う。
それを堪えるのに必死だった。
そんな友雅の表情をどう捉えたものか、袂を握り込む泰明の指先からふっと力が抜けた。
「この想いは…嘘ではない」
押し殺した声音で呟いた泰明が、唐突に動く。
細い身体を翻し、部屋の中央にある卓へ駆け寄る。
華奢な手が、そこに置いたままの小刀を掴んだ。
行燈の薄明かりに、鋭い刃が白い煌きを零し…
「…っ!止めなさい、泰明!!」
そのまま、自分の指を切り落とそうとした泰明の細い手首を、血相を変えた友雅が力ずくで掴んで止める。
抵抗するのを封じる為、その細身を腕の中に抱き込むと、泰明の手を離れた小刀が床に落ちた。
腕の中で俯き、儚く身を震わせる泰明が、掠れた声で呟く。
「殺して…」
この想いを嘘だと断じるのなら。
想いの証を残すことさえ、許さないのなら。
いっそ、この身ごと、この想いを殺して欲しい。
「泰明…」
思いも寄らなかった激しい感情をぶつけられ、友雅は言葉を失くす。
どうにか、名を呟くと、泰明がゆっくりと顔を上げた。
翡翠と黄玉の澄んだ瞳が濡れている。
それでも尚、溢れることのない潤みが、瞳の中で揺らめくように朧な灯りに煌く。
「友雅でなければ…嫌なのだ……」
そう言葉を零してから、きゅっと引き結ばれた花弁の唇。
今宵の宴の名残を残す紅の色。
そうして、ふたりの瞳と瞳が合った…その瞬間。
友雅は今まで堪えてきたもの全てが崩れていくのを自覚する。
自覚しながら、腕の中の華奢な身体を更に引き寄せ、強く抱き締める。
今はもうただ、この腕の中の健気な花が愛おしかった。
…欲しかった。
湧き上がる衝動に任せて、あの夜よりも強引に、奪うように紅の花弁に口付ける。
泰明の纏う薄衣が、蕾んでいた花が開くように、はらりと床に滑り落ち、後を追うように紫の花が零れ落ちた。
少し怯えながらも、素直に唇を開く泰明。
柔らかな花弁の感触と蜜の甘さを味わいながら、床に散った着物の上に、そっと細い身体を横たえる。
水の流れに似た紋様を描きながら拡がる翡翠色の髪が、色鮮やかな布の色と艶やかな対比を成す。
「…嫌」
唇を解放して、少しだけ身を離そうとすると、泰明が首を振って、細い腕を友雅の首に回す。
少しでも離れるのは嫌だと、友雅の髪を掴みながら、子供のようにしがみ付いてくる泰明に、友雅は苦笑する。
「これでは動けないよ」
そう耳元に囁き掛けても、泰明は強情に首を振る。
だが、ここまで泰明を不安にさせてしまったのは、自分だ。
苦く甘い自責の念に囚われつつ、友雅はもう一度囁き掛ける。
「もう…君を手放したりはしないよ」
焦がれ続けた身体に、心に触れてしまった。
こうなってはもう手放せない。
泰明の真心を疑う訳ではないが、やはり、泰明の友雅への想いの根底には、養い親として友雅を慕う心がある。
だが、そんなことは、もうどうでも良くなった。
泰明の純粋な想いが勘違いであっても、彼を手放したくない。
その勘違いを利用してでも、彼の全てを自分に繋ぎ止めたい。
そのまま、形良い耳に口付け、柔らかな耳朶を啄ばむ。
微かに腕の中で身もがきする細い身体が愛おしい。
すんなりした項へ、華奢な鎖骨へと唇を滑らせるうちに、僅かに朱を滲ませるのみだった桜色の肌が、
仄暗い灯りの中、ますます朱を帯びて艶やかに染まり、甘やかに匂い立つ。
さながら、開き掛けた花の蕾が色付き、香りを放ち始めるように。
「……あ…っ…」
殆ど紅の色が落ちていても、尚紅い唇から零れる溜め息のように小さく甘い悲鳴が、
鳥の囀りのように、耳に心地良く響く。
肌を辿る友雅の唇と手の動き、ひとつひとつに敏感に反応するその初々しさに、友雅はふと気付いた。
今まで泰明は誰にも抱かれていない。
永泉と夜を共に過ごすようになってからも、ただの一度もその肌を許していないのだ、と。
泰明はずっと、自分を想い、自分との約束を守り続けていてくれたのだ。
そう悟った瞬間、一瞬でも疑ったことへの申し訳なさと、それ以上の歓喜が胸に満ちた。
あとは、何を考えることもなく、腕に捉えた気高く甘美な花の色香に誘われるまま、溺れていく。
薄暗い灯りの中で、仄かに輝くように麗しく乱れる艶姿。
時折、あえかな啼き声が耳を擽る。
淡く溶けそうなほど柔らかく滑らかな肌の感触。
薄紅色に染まった肌から立ち昇る清しくも甘い花の香りに、全身が包み込まれる気がした。
友雅の背に縋るようにしがみ付く細い指が立てる爪の痛みさえ、手放しがたい甘さ。
目も耳も、五感の全てが、この罪な花に魅了され、奪われ、埋め尽くされる。
…支配される。
恐怖にも似た快楽に溺れながら、友雅は奥深く秘められた花芯を覆う花弁を押し開く。
その瞬間、喜悦と苦痛の入り混じった声を漏らした柔らかな花弁に口付け、宝玉の瞳から零れ落ちた夜露を吸った。
窓から部屋の差し込む燈籠の灯りが消え、代わりに暁の光が入り込んでくる。
これほど夜を短く感じるのは久し振りだった。
また、これほど満ち足りた気持ちで朝の光を眺めるのは。
素肌に薄衣と友雅の腕を巻き付けた泰明が、ふと目を覚まし、身じろぎする。
「おはよう」
「…おはよう」
「身体は辛くない?」
「…問題ない」
恥らうように僅かに目尻を染め、微かに掠れた声で、答えた泰明は、目を上げてふと、
「これは…?」
細い肩を抱く友雅の指の傷を見咎めた。
「もしや、無意識のうちに私が…?」
「…ああ、これは違うよ。君の所為じゃない」
瞬く間に柳眉を顰める泰明の勘違いを、友雅は笑って否定する。
「浅い傷で、すぐに血も止まったから放っておいたのだが…」
「また、血が出ているな」
愁眉は開いたものの、まだ気掛かりなのか、友雅の裸の胸に寄り添った泰明は、
友雅の指を取って真剣に傷の様子を眺めている。
何かを考えるように、何処か可愛らしい仕種で少し首を傾げ、次いで何の躊躇いもなく、友雅の傷のある指を口に含んだ。
「…泰明」
柔らかな舌に丹念に傷を辿られて、夜の余韻がまだ、身体に残っている友雅は、一瞬動揺してしまう。
「どうした?痛いのか?」
友雅を狂わせたあの凄艶さは何処へ行ったのか、泰明は全く無邪気そのもので訊いてくる。
「全く君は……」
半分は動揺を悟られない為、もう半分は本気で、友雅は片手で額の髪を掻き上げ、溜め息を吐いた。
思わず唇に笑みが浮かぶ。
染まらない泰明の無垢さが少し切なく、だが、嬉しかった。
夜の名残である幾つもの紅い花弁に飾られた白い身体を、一層傍近くへと抱き寄せた友雅は、泰明の耳元へ甘く囁いた。
「他の男とは、こうしてはいけないよ」