花精招来

 

仄かに甘い香りを纏った闇が包みこんでくる。

 

包む?

一体何を?

己には包むことの叶う実体はない筈。

また、何故己は闇が纏う香りを感じることができるのか。

 

何よりも、こうした疑問を伴った思考をしている己に、眠る者は戸惑いを覚える。

己はただ、そこに「ある」存在だった筈だ。

そして、戸惑いを覚える己にまた戸惑う。

 

「貴き方」

 

人間の声が聞こえた。

聞こえた。

その場の空気と共に染み込む筈のものである声が。

まるで、人間のような不自由な実体を持つ者が、特定の器官を経て音を受け取るように。

再び、戸惑う者を余所に、声は次の言葉を紡ぐ。

 

「未だ目覚めぬ貴き方よ。貴方様に我が声は届いておりますか?」

「そう問うお前は何者か」

 

呼び掛けに応えた声が声帯を震わせる。

その物質的な感覚に、戸惑いは不可解さへと変わっていく。

そんな様子を感じ取ったのか、応える声は僅かに笑みを含んでいた。

 

「貴方様の目覚めを待つ者。この声が届くのならば、どうかその瞳を開いて頂きたい」

 

その声に応える前に、瞳は開かれていた。

同時に意識も闇から光の中へと浮上する。

身を包む甘い香りが一層強くなった。

ゆっくりと身を起こす。

重い。

身体を支える為に床に付いた白く細長い物。

その先は床の上で平べったく折れ曲がり、

五本の長さの違う細い木の枝のように分かれている。

そこに何故か見ることの出来ない背後を滑りながら、翠色の蜘蛛の糸束が零れ落ちてくる。

 

「これは……」

 

思わず呟くと、先程の声が聞こえた。

 

「我が呼び掛けに応えて頂き、恐悦至極。お待ちしておりました、神よ」

 

神よ。

 

そう呼び掛ける声に目を向けると、そこに端座した一人の人間が、深く頭を垂れていた。

その姿を目にして、やっと神と呼ばれた者は、己が今、

人間の姿を持っていることに気付いた。

そこで、改めて己が宿った器を眺める。

無意識に身体を支えていたのは、腕だ。

細い腕が繋がる肩。

肩を包む白い肌は、磨かれた象牙のように艶やかに輝く。

それは薄い皮膚の下にある骨の色と形を連想させた。

同じく無駄な肉が一切ない滑らかな胸元、ほっそりとした腰、すんなりと伸びた脚。

目の前の人間と比べると、全体的に随分と華奢な造りである。

蜘蛛の糸束と見えた翠色の髪が、衣代わりに白い裸身を包んでいた。

もし、他の人間がこの姿を目にしたなら、

美姫と見紛う程美しい青年だと感嘆の溜息を漏らしたに違いない。

しかし、この美しい器に宿った神は「ひと」の持つ美意識を持ち合わせていなかった。

淡々と己の姿を眺めた後、再び頭を垂れる人間へと視線を戻す。

 

「お前は誰だ」

「安倍晴明。しがない陰陽師、呪術使いで御座います」

 

慇懃な口調で応えつつ、人間は闇色の髪を狩衣の肩から零しながら、頭を上げる。

若い青年だ。

しかし、神は目の前にいる人間が見かけ通りの齢ではないことを見抜いていた。

淡々とした口調で問いを続ける。

 

「私を人間の型に閉じ込めたのはお前か」

「左様で御座います」

「何故このようなことをした」

 

そう問い掛ける声は、何処までも透明で、何の色も纏っていない。

たかが人間に捕まったことを悔やみ、憤る感情などなく、ただ事実のみを確認する響き。

 

「私個人の身勝手な望みの為」

「お前の望みとは何だ」

「…一つは只人として死ぬこと。その為にその器を創りました」

 

その言葉に神は、再び己の宿る器の姿を眺め、次いで長い睫を伏せ、その内部を探る。

 

「内に凝った気があるな。随分と偏りのある…これは陰の気か」

「私が抱えていた余剰な陰の気を、その器に注ぎました。

そうすれば、私は只人として死ぬことができます」

 

神は閉じていた瞳を開き、晴明をひたと見詰めた。

その瞳はその身に抱える陰の気の為か、或いは人ならぬ魂を封じ込めた為か、

左右違う輝きを宿している。

翡翠と黄玉の輝き。

 

「では、私をこの器に閉じ込めた理由は?

お前の代わりにこの器に余剰な気を受け止めさせるだけでは足りぬのか?」

「いいえ」

 

重ねられた問いに晴明は、苦笑めいた笑みを浮かべる。

 

「この器がありさえすれば、それが動かなくとも、

今申し上げた私の望みを叶えるには充分。

貴方様をわざわざお呼びしたのは、私のもう一つの望みの為」

 

色違いの瞳が先を促すように、見返してくるのに晴明は微笑む。

 

「貴方様が今宿るその器。実は私の死んだ妻の姿を模しているのですよ。

…そう、ちょうど妻が私と出会った頃の姿です」

「それがどうしたと言うのだ」

 

何の脈絡もないような話に、目の前の整った顔が、僅かに眉を顰めた様な気がした。

晴明は笑みを深くしながら、言葉を継ぐ。

 

「別の器に陰の気を注ぐこの方法を、私に教えてくれたのは妻でした。

私の望みを彼女はずっと知っていた。

だからこそ、病で逝く前に、

自分の躯を私の陰の気を受け止める器とするように言い残したのです。

私の望みを叶える術を遺言として残すことで、彼女は私の背中を押してくれた…

…しかし、私の抱えていた気は妻の身体には収まり切らず、

別の器が必要となりました」

「それで、この器を創ったのか」

「はい。北山の天狗の力を借りて…

しかし、その準備自体は妻が既にしてくれていたのです。

私が長年蓄積してきた陰の気を注ぐには、

自分の身体だけでは足りないだろうことも彼女は承知していた。

全く…私には過ぎるくらいの良い妻でしたよ」

 

取り留めない思い出を語るように、先が見えない話に再び、神が催促する。

 

「お前の話は回りくどい。早く応えを言え」

 

すると、目の前の男は、おかしそうに笑い出した。

 

「何がおかしい」

「…申し訳ありません。妻にもよくそのように言われていたもので」

 

怪訝そうな表情で色違いの目を瞬く妻の姿を模した神に、

ようやく笑いを治めた晴明は応える。

 

「回りくどいのは、私の性格なので、どうかご容赦を。

いずれにせよ、あと少しで貴方様の求めた応えに辿り着きますので、

それまでこの話にお付き合い頂けますでしょうか?」

「分かった」

 

神を目の前にしても何処か、人を食ったような物言いをする晴明に、

腹を立てることもなく、神は静かに頷く。

 

「さて、話の続きですが、私は先程申し上げた経緯により、

今貴方様が宿られている器を創りました。

しかし、実のところその姿を初めて見たときは…私も驚きました」

「この姿はお前の意図したものではないと?」

「ええ。

妻が準備していたものから創ったからか、

或いは私自身の無意識の望みが反映されたからか…原因は分かりませんが、

新しい器はこのように、妻の面影を色濃く宿したものとなったのです。

目の前に、今は亡き愛する妻の容姿をした者がいる。

それをただ眠らせておくのは勿体無い。

目覚めさせたい、生きて動く様を見たい…と思うのが人情というもの」

「そうなのか」

「そうですとも」

 

一概にそうとも言い切れないのだが、

人ならぬ神にそれが分かる筈もなく、素直に相槌を打つ。

 

「つまり、私のもう一つの望みは、妻の形見とも言えるこの器に新しい命を、

魂を吹き込むことだったのです。

…さて、そこでどんな魂を吹き込むかという問題が出てきます。

順当に考えるなら、妻の魂が相応しいでしょうが、

流石に既に常世にある妻の魂を呼び戻すのは忍びない」

「何故だ」

「そんなことをしたら、妻に叱られてしまいます。

せっかく眠っているのを無理矢理起こすなと」

「そういうものか」

「ええ」

 

ここまで来れば、晴明とその妻の関係は、

常識的な夫婦関係とはかなりかけ離れたものであることが分かる筈だが、

神はこの世界の夫婦の常識自体を知らない。

だから、晴明の言うことを疑わずに鵜呑みにする。

 

「妻の魂を呼び戻すことは出来ない。

しかし、代わりにそこらを漂う常世に行き損ねた魂を吹き込むなど、以ての外です。

ならばいっそのこと…と思いましてね。

もっと高位の魂…神の御霊を呼び寄せることにしたのです」

「そうして、お前に捕まえられたのが私だと言う訳か」

「そういうことになります」

「分かった」

「…怒らないのですか?」

 

淡々とした応えに、晴明は尋ねる。

その瞳が神の反応を面白がるように煌いた。

 

「一介の人間如きが、個人的で身勝手な理由で、

貴方様の魂をそのような小さな器に閉じ込めたのですよ?

そんな無礼極まる人間を罰しようとは思わないのですか?」

「たかが人間如きに捕らえられたのは、私自身の落ち度によるものだ。

また、お前の言った怒りとは、人間に特有の感情の一つだ。

それを理解し、己のものとできるほど、私はこの世との関わりがない」

 

四方を壁に仕切られた部屋の内を漂う甘い香り。

他人事のように己を語った神はその出所を辿り、妻戸へと視線を巡らせる。

 

「どうなさいましたか?」

「先程から甘い香りがする」

「甘い香り…ですか」

 

神の言う香りをそれ程感じない晴明が首を傾げている間にも、

神はすらりと立ち上がり、今いる塗籠の外へと出て行こうとする。

 

「お待ち下さい」

 

晴明は若干慌てて立ち上がり、神の一糸纏わぬ撓やかな裸身に、

手元にあった単を着せ掛ける。

単の白と肌の白さが互いに映り合って、薄闇に仄かな輝きを零す。

 

「この外から甘い香りがする」

 

静かに訴える神の様子が、子供のように無邪気に見え、そんなところも妻に重なる。

知らず、笑みが深くなる。

 

「ああ、それは恐らく庭に咲く桔梗の香りですね」

「花か」

「ええ、後程お見せ致しましょう。その香りは私にはそれ程強く感じられないのですが。

神におかれては草花の類がお好みでいらっしゃいますか?」

「分からぬ。しかし…」

 

そう言って黙り込む神の翡翠と黄玉の瞳に、懐かしむような光が宿る。

しかし、「懐かしむ」ことを知らぬ神はそれを言葉にすることが出来ない。

そんな美麗なる神の様子を静かに眺めていた晴明はふと気付く。

 

「成る程。貴方様の本性は花耶姫(カヤノヒメ)の眷属…花精なのかもしれませんね」

「人間であるお前が私をそう見るのならば、そうなのだろう。

そもそも神とは人間が作り出したもの。

人間が捉えることのできる森羅万象を崇敬し、名付けることによって、神は生まれ、形を成すのだ」

 

感情の色のない神の声音は、冷たさよりも無垢さを感じさせる。

陰陽師は、その整った唇に僅かな笑みを浮かべた。

それは、理想通りの魂を捕まえることのできた会心の笑みだった。

晴明にとって他のいかなる神でもなく、この神をこそ捕えられたのは、幸運だった。

これ以上、この身体に相応しい魂はない。

 

「神よ」

 

晴明はふと笑みを消し、呼び掛けた。

呼び掛けに花耶姫の眷属なる花精は、細い肩に掛けられた単もそのままに佇み、視線だけを彼に戻す。

その透明な瞳を一瞬強く見据えてから、晴明は再び深くひれ伏した。

 

「大いなる自然に宿りし貴き方よ。

どうか、貴方様の悠久なる生のほんのひとときを私に預けて頂きたい」

「良かろう。人間の生に見合う間、この器に宿ることを約す」

「宜しいのですか?」

「構わぬ。何故、そのようなことを訊く?その為に私を捕えたのだろう。

私は囚われの身だ。その身の処遇については捕えたお前に任す」

 

潔い応えに、神を捕えた陰陽師は微笑む。

 

「それでは、この名前をお受け取り下さい。貴方様の人としての名を」

 

この名を受け取った瞬間から、神は晴明の妻の姿を映した器と共に、

人として生きていくこととなる。

その高潔な魂を保ったまま。

 

「安倍泰明。それが貴方様の人としての名となります」

 

桔梗咲き乱れる邸にて。

 

花精が舞い降りた。


後書き ホント、毎度ながら申し訳ありません(土下座)。 やっすんファンなら一度は妄想する生誕話。 公式設定を拝見したときにふと、頭を過ぎった妄想を形にしてみました…が、 一体何でしょうこの話は(汗)。 やっすん=神。 一体なんでしょうこの設定は(死)。 いや、人形って神の宿る器にもなりうるし。 幾ら晴明が優れた陰陽師だからって、器に宿る魂まで創ったりは出来ないんじゃないかな、と思いまして… じゃあ、魂は余所から貰ってきたんだね! その魂は何?…やっすんのあの無垢さ気高さ!それは人じゃないね!むしろ神! 日本は八百万の神の国だし。人になった神様だっていていいんじゃない? …と、妄想は際限なく広まったのであります……びくびく(怯)。 この後、やっすんはお師匠の助けを借りて、自らの神としての記憶(自我?)を封印するのです。 お師匠について。 私は正直あんまり、書きたくありませんでした(苦笑)。 様々な方々の素晴らしい晴明像があり、また、個人的にイメージが定まらない部分もあったので。 しかし、やっすん生誕話にお師匠を欠く訳にはいかず…… 悩みつつ書いてるうちに、こんなお師匠が出来上がりました。 ちなみにうちの師匠、回りくどい性格の上に、冗談好きです(笑)。 序に、器に宿らせる魂として神の御霊を選択する辺り、なかなか不敵でもあるようです。 そして、亡き奥様はどうやら呪術的な知識もお持ちでいらっしゃったよう。 お師匠は冗談好きの性格が災いして、彼女を妻として迎えることになりました。 ホントは一生お嫁さんを貰うつもりはなかったのにね……って、 書きたくない言いつつ、非公開の設定まで作っちゃってるじゃん……(呆) あ、今回のやっすん、今までとは少々雰囲気が異なるかもしれませんが(そんなことないかな?/笑)、 私の中では全く矛盾はありません!! こんな風に生まれたやっすんが、様々な経験を経て、あのてんやすとかともやすとか、 よりやす等々のやっすんに、分岐していく訳ですよ!(ぶ、分岐?) 「恋人は神様」。 …いいじゃないですか!ときめきません?!(わ、私だけ?/汗) 用語説明。 花耶姫(カヤノヒメ)→鹿屋比売神(カヤノヒメノカミ)のこと。野と花の神…だそうです。 他にもこの神に当てられた漢字があったのですが、いまいち気に入った字面が見付からなくて、勝手に変えてしまいました。 まあ、なんちゃって平安時代なので、許されるでしょう!!と己を甘やかしてみたり。 やっすんはこの花の神の眷属神のようですが、その呼び名をこれまた勝手に字面のよさから「花精」にして、 題名にも使ってしまいました(「花神降臨」だと大袈裟過ぎる気もしたので……)。 毎度の如く、このお話もフリーで。 長過ぎて、フリーには向かない話で申し訳ありませんが(汗)、 気に入ったぞって方はお持ち帰り下さいませ。 その際は掲示板にお言葉残して頂けると幸いです。 …いつか忘れた頃にこのお話の続編を書くやもしれません(来年とか?/笑)。 戻る