甘露(前編)
高く澄んだ空の下で、木々の葉が鮮やかに色付いている。
その美しさに見惚れながら、詩紋は大きく息を吸って吐いた。
清々しい秋の香りに、仄かに混じる甘さに、微笑む。
視線を手にした折櫃へと向ける。
甘い香りは上に紗を掛けられたその折櫃から漂ってきていた。
うっすらと輝く翠色の小道を、詩紋が導かれるまま歩んでいくと、周囲に広がっていた木立が途切れた。
一際鮮やかに紅葉する楓に、半ば隠されるように佇む庵が見える。
その入り口が、ここまで詩紋を導いてきた小道の終着点となっていた。
詩紋がその戸口へ向かって再び歩き出そうとしたそのとき。
「来たか、詩紋」
扉が開き、涼やかな声音と共に、紅葉よりも鮮やかな姿が現れた。
そよぐ風に、翠の絹糸のように散らばる長い髪の艶やかさ。
人形のようにすらりと華奢な肢体と、繊細で整った美貌。
一見して、無表情なその顔が、詩紋の姿を認めて、花のように綻ぶ。
その麗姿に見惚れた詩紋は、思わず立ち尽くしてしまう。
すると、反応をしない詩紋に、そのひとは怪訝そうに首を傾げた。
「どうしたのだ?」
無邪気な様子で問われ、詩紋は我に返る。
「あっ、ごめんなさい!ぼーっとしちゃって」
応えて、その人の元へ向かう。
全く、このひとの綺麗さには、いつまで経っても慣れない。
「身体具合が悪いのか?」
細い眉尻を少し下げ、心底気掛かりそうに、見当違いの事を訊いてくるこのひとが、可愛らしくて、愛しい。
「ううん、そんなことない。元気だよ。でも、心配してくれて有難う、泰明さん」
「そうか。ならば、良い」
笑みを湛えて、そう言うと、素直に安堵する。
疑うことを知らない、幼いこどものように純粋で、無垢なひと。
守ってあげたいと思う。
勿論、泰明は自分が守る必要がないくらい強いのは知っている。
しかし、その事実と守りたいと思う気持ちは、全く別次元のことなのだ。
守りたいと、そう思ってしまうのだから、仕方がない。
詩紋が目の前に立つと、泰明は微かに漂ってくる甘い香りに誘われるように、詩紋が捧げ持つ折櫃へと視線を向ける。
「これが、昨日お前が言っていたものか?」
澄んだ色違いの瞳が期待に煌々と輝いている。
その幼さを可愛いと思いつつ、詩紋は笑顔で頷く。
「そう。僕の居た世界のお菓子、「ケーキ」だよ」
言いながら、被せていた紗を取る。
ふわりと更に、甘い香りが周囲に漂った。
「けえき…」
滑らかな頬を微かに緩め、泰明が繰り返す。
「今回のは、自信作なんだ。上手く出来て良かった。はい、どうぞ」
ケーキの入った折櫃を笑顔で手渡されて、泰明はやや戸惑った顔をする。
「有難う、詩紋。だが、これは私一人では食べきれぬ」
心なしか済まなそうに言うが、詩紋が手渡したケーキは、一ホール丸ごとだ。
食べ切れないだろうことは、先刻承知だが、詩紋は技と気付かない振りをして、言葉を返す。
「え?そうなの?泰明さんは甘い物が大好きだから、これくらいは大丈夫かと思った」
「幾ら好きなものでも、そこまで食い意地は張っておらぬ」
憮然とした口調で言い返す泰明の桜色の頬が少し膨れている。
どうやら、からかわれていると分かったらしい。
耐え切れずに、くすくすと笑い出すと、上目遣いに軽く睨まれた。
今は、泰明よりも詩紋のほうが背が高い。
詩紋は笑いつつも、宥めるように言葉を紡いだ。
「分かってるよ、ごめんね。ケーキは一緒に食べよう?それでも余ったら、お師匠さんや友達の皆に分けたら良いよ」
「そうする」
泰明が頷くと、詩紋は笑いを治め、泰明を見詰める。
「じゃあ、改めて。お誕生日おめでとう、泰明さん」
「有難う、詩紋」
泰明もまた、詩紋を見詰め返し、ふわりと微笑んだ。
実は、泰明の誕生日は、昨日だった。
当日も勿論、詩紋や他の友人たちも交えて、祝いの宴を催した。
誕生日を祝う習慣のない皆は、珍しがりながらも、快く泰明の生誕を祝い、大いに愉しんでいた。
当の泰明もとても嬉しそうだった。
本当なら、ケーキはその日に作って、宴のときに、皆で食べるのが普通だろう。
しかし、詩紋が宴のときに用意したのは、別の焼き菓子だった。
ケーキを作る材料が間に合わなかったのである。
詩紋が宴の前日まで、どのようなケーキを作るか、悩んでいた所為もあった。
だが、一日遅れにケーキを渡すことになったのは、結果的に良かったのかもしれない、と、詩紋は心密かに思う。
何故なら、こうして、改めてふたりきりで、誕生日を祝うことが出来るのだから…
「あれだけ悩んで、結局、普通のショートケーキみたいなのになっちゃった」
苦笑する詩紋に、泰明は首を傾げた。
「このように白くて綺麗な菓子が普通なのか?詩紋の居た世界は凄いな」
素直に感心されて、ついつい詩紋は笑ってしまう。
「そんなことないよ。でも、綺麗だって言ってもらえて嬉しいな。味も気に入って貰えると、もっと嬉しいけど…」
「詩紋の作る菓子はいつも美味い故、このけえきも美味い筈だ。昨日のくっきーも美味かった」
「有難う」
そんな言葉を交わしつつ、泰明に誘われて、詩紋は庵の内へと足を踏み入れる。
と、そこで気配に気付いた。
生気は感じられない。
しかし、確かに存在していると分かる気配。
そして、その存在は目でも捉えることが出来た。
「季史さん…」
目を瞠りつつ、詩紋は思わず呟く。
「…邪魔をしている」
庵の縁側に、静かに座していた季史がす、と目を上げ、その佇まいと変わらぬ静かな言葉で挨拶をした。
「こ、こんにちは…」
思わぬ先客に、詩紋の挨拶は、どもりがちになってしまう。
季史もまた、遠慮がちに微笑み、その場には微妙な空気が流れた。
しかし、泰明はその空気に一向気付くことなく、無邪気に季史に声を掛ける。
「季史、詩紋が私の生誕祝いとして、けえきを作ってくれたのだ。お前も共に食べぬか?」
そう誘いながら、詩紋を振り返る。
「昨日の宴には季史は参加しなかった故。良いだろう?」
「あ…」
その言葉で詩紋はやっと気が付いた。
確かに、昨日の宴では、季史の姿は無かった。
本来、あの世の存在である季史は、この世では現れる場所に制限がある。
しかも、祝宴の場に満ちる陽の気は、季史をこの世に留めている陰の気を消耗させるのだ。
それでは、参加したくても出来ないだろう。
彼も大切なひとの記念日を祝いたかったのに違いないのに。
そう思い至った詩紋は、泰明の言葉に頷いた。
「うん、勿論良いよ。そのケーキは泰明さんにあげたものだから、泰明さんの好きなようにして良いんだ。じゃあ、三人で食べようか」
心の片隅で、泰明とふたりきりになれなかったことを惜しむ気持ちを自覚しながら、気付かない振りをする。
「…生誕祝い…?け…え…き?とは、何のことだ?」
「え?季史さん、知らなかったの?」
季史に怪訝そうに首を傾げられ、詩紋は思わず驚いた声を上げる。
「そうだ。そう言えば、季史には何も言っていなかった」
今思い出したかのように、全く悪びれることなく泰明が言い、詩紋は微苦笑しつつ口を開く。
「あのね…昨日は泰明さんの誕生日で…」
一通り、誕生日とケーキのことについて説明すると、季史は得心が入ったように頷いた。
「ひとそれぞれの生誕の日を記念として祝うとは…珍しい習慣だな」
「私もそう思った。誕生日に歳を取るという考え方も珍しい。ここでは皆、新年を迎えると、歳を取ることになっている故」
と、泰明も同意する。
「僕にとっては、当たり前のことだったんだけど…やっぱり、誕生日をお祝いするのは面倒なことだって思う?」
詩紋が気になって、そう問うと、泰明と季史は揃って首を振った。
「いや…珍しいが、良い習慣だと思う」
「生誕日を祝うのも祝われるのも、嬉しいものなのだな」
穏やかに微笑まれ、詩紋も笑顔になった。
それから、泰明が茶代わりに、薬草を煎じて湯で薄めたものを準備して、ささやかな宴となった。
まずは、泰明がケーキを口にする。
白いクリームに負けず劣らず白い頬が、ふわりと柔らかそうに緩む。
そうして、ゆっくりと桜色に染まった。
その表情だけで、泰明の気持ちは十二分に伝わってきた。
そんな泰明に半ば見惚れながら、詩紋は訊ねた。
「美味しい?」
詩紋の問いに泰明は、こっくりと頷く。
その様の何と無垢で、可憐なことか。
詩紋は思わず、青い瞳を細めた。
と、泰明を挟んで向こう側に座す季史と目が合った。
季史もまた、詩紋と同じように眼を細めて、泰明を見詰めていたのだが、詩紋と目が合うと、微かに苦笑めいた笑みを浮かべた。
三人とも、饒舌な性質ではなく、交わす言葉は少ない。
それでも、穏やかな空気の中、ささやかな宴の時間は過ぎてゆく。
やがて、嬉しそうにケーキを口に運んでいた泰明の手がピタリと止まった。
その理由を察して、詩紋は声を掛ける。
「お腹一杯になっちゃった?」
泰明は翠と橙の大きな瞳で詩紋を見詰め、頷いた。
「結構残っちゃったね。頑張って、大きいのを作っちゃったからなあ」
「このけえきをお師匠の処に持って行っても良いだろうか?とても美味ゆえ、お師匠にも食べて貰いたいのだ」
「勿論良いよ」
「そうか。では行ってくる」
「えっ、今から?」
詩紋の快諾を得て、泰明は残ったケーキを掲げて、すっと立ち上がった。
驚いた詩紋が引き止める間もない。
泰明は詩紋と季史をその場に残して、庵を出て行った。