花精来香(前編)

 

春も盛りを迎えた庭は、咲き乱れる鮮やかな花々によって、華やかに装われている。

花に劣らず色鮮やかな蝶や鳥が、蜜を求めて飛び交う様は、柔らかな陽射しも相俟って、

僅かに煙るように見え、この世ならぬ天上の花園を思わせた。

そのとき、不意に幻想の世界を崩す鋭い音が、響き渡った。

驚いた鳥が枝を飛び立ち、蝶はふわりと花弁から離れる。

音は、庭に面した部屋の中からだった。

格子と御簾を上げ、几帳を退けて、風通しを良くした母屋で、庭に向き合って座った黒髪の青年が、手にした扇で脇息を叩いた音だ。

青年は、叩いた音の激しさとは裏腹な、しかし、威厳の篭った声で、静かに言葉を紡いだ。

「…どうあっても決心は変わらぬか?」

「はい」

青年が厳しい眼差しを注ぐ先には、母屋より一段低い庇の間に、直に跪き、ひれ伏している少年の姿がある。

迷いなく答えた少年に、僅かに黒髪の青年の端整な口元が緩む。

しかし、声音の厳しさを保ったまま、青年は頭を垂れる少年へ、通告した。

「分かった。ならば、お前はもう、安倍家の者ではない。何処へなりと行くが良い」

「…はい」

顔を伏せていた少年は、そこでやっと、顔を上げた。

落ち着いた雰囲気を漂わせる大人びた顔立ちだが、烏帽子の下に見える結い上げた髪には、まだ、瑞々しさがある。

少年は、この春に元服を迎えたばかりだった。

「元は孤児であった私を引き取り、安倍家の者として、今まで育てて下さったこと…本当に感謝しております。

その御恩に報いることのないまま、去ることだけが心残りです」

「余計な御託はいらぬ。さっさと出て行け」

「分かりました。それでは…」

少年はす、と立ち上がり、部屋を辞した。

 

簀子を歩いていると、背後から慌しい足音が響いてきた。

「皐月!」

名を呼ばれた、少年、皐月丸はゆっくりと振り向いた。

そんな彼に、ひょろりと背の高い、まだ元服前の童姿の少年が駆け寄る。

呼び止めたものの、その先の言葉を見出せずに、逡巡する少年に、皐月は穏やかに微笑んだ。

「お前とも、今日でお別れだな、如月。兄弟としての縁も今日これまでだ」

朗らかに言う皐月に、如月丸がやっと口を開く。

「皐月…本気で安倍家を出て行くつもりなのか?」

「本気も冗談も…今先程、父上に勘当されたところだ。今更戻ることなぞできないよ」

「そんな…せっかく春から陰陽寮に仮出仕して、秋の除目には正式に任官する筈だったのに…」

「それも、僕が安倍家の人間であればこそだよ。この家から出て行けば、任官の話もなくなる」

「そうまでして…今までの自分を引き換えにしてまで、皐月はあの人と一緒にいることを選んだのか?」

「ああ。あの人がいない人生など、僕にはもう考えられないからね」

皐月は躊躇わずに頷いた。

「…そ…うか」

兄の決意の固い様子に、如月はこれ以上引き止める言葉を見付けられずに、黙り込む。

 

皐月は仮出仕をして間もなく、調伏依頼で先輩陰陽師と共に、とある貴族の屋敷を訪れた。

その際、同じく屋敷の主の調伏依頼で、やって来ていた渡りの巫女と恋に落ちたのである。

だが、相手は、身分も家柄もない漂泊の民だ。

無理を押して、彼女を、安倍家に縁ある貴族の養女にするなどすれば、

妻として迎えることも出来なくはなかったが、彼女はそれを望まなかった。

確かに、彼女は霊力の高い優れた巫女であり、そのことに誇りを持っている彼女に、今の生活を捨てさせるのは忍びなかった。

ならば、自分が捨てれば良い。

幸か不幸か、自分の宮廷陰陽師としての才は、平凡の域を出ないものだ。

自分がいなくなっても、陰陽寮に大きな影響はない筈。

そう、皐月は早々に決断して、それを父である晴明に告げたのである。

晴明の妻も、元は稲荷明神の巫女だった。

故に、晴明は、皐月の恋や、その為の決断も、本心では認めているだろう。

だが、中流貴族とはいえ、宮廷陰陽道を取り仕切る大家となりつつある安倍家には、体面があった。

個人的感情はどうあれ、身分賤しい女との恋を貫く為に、家を捨てるという息子を、笑顔で送り出す訳にはいかない。

そこで、今日の勘当という形になったのだった。

 

「元服前の「皐月丸」という名前だけは名乗るお許しを頂けたのだから、それだけは良かったよ」

「でも……」

如月には、穏やかで落ち着いた兄が、身分違いの情熱的な恋をした上に、家を捨てるという大胆な決断をするとは思いも寄らなかった。

正直今も、衝撃が冷めやらず、当の本人よりも動揺している。

何よりも、この家から兄がいなくなってしまうことが寂しかった。

そんな如月の肩を、皐月が元気付けるように叩く。

「何をしょげた顔をしているんだ、如月。

これからは、お前が安倍家の長男として、役目を果たして行かなければならないんだぞ、しっかりしろ。

それに、心配しなくとも、これで、僕と安倍家の関わりが完全に切れる訳じゃない。

今後は、「式神」として、安倍家の役に立つつもりだよ」

「皐月…」

しかし、それは、安倍家の一員から、安倍家に仕え、使われる者に成り下がるということである。

それを充分理解した上で、皐月は朗らかに笑う。

自分で自分の人生を選び取った決意と自信の笑みなのだろうと、如月は思った。

と、不意に、皐月の表情がやや翳る。

「これから、陰陽寮でひとりになる泰明のことだけが、少し心配だけど…」

「!」

皐月と時を同じくして、泰明も陰陽寮に仮出仕をしていた。

抜きん出た美貌に加え、異様な顔の呪い、陰陽師としての優れた才能、天下一といわれる安倍晴明の愛弟子という肩書きをも持った泰明は、

陰陽寮の中でも、明らかな異彩を放っていた。

更に、泰明の傍若無人とも見える言動に、反感を覚え、嫉妬心を増大させる者が少なからずおり、

そのような者が仕掛ける嫌がらせから、皐月はそれとなく泰明を庇っていた。

皐月がいなくなれば、泰明はそのような嫌がらせに直面する可能性が高くなる。

「まあ、当の泰明は、些細な嫌がらせなど歯牙にも掛けないだろうし、大事になりそうな場合は、父上…

晴明様が上手く取り計らってくださるだろう…」

そうごちるように呟いた皐月は、不安そうな如月を見て、若干意地悪気に微笑んだ。

「それに、如月が陰陽寮に出仕するようになったら、頼まれなくても、お前が進んで泰明を守るだろう?」

「ッ皐月!!」

突如、真っ赤になって大声を出した如月に、皐月は笑った。

「それじゃ…如月、僕が言うまでもないことだけれど、安倍家と泰明のことを頼むよ」

最後にそう言って、皐月は笑顔のまま、邸を去っていった。

 

 

その日、泰明は洛外を歩いていた。

右耳の上できっちりと結い上げられた艶やかな翠色の髪が、うららかな春の陽射しを浴びて、絹糸のように煌き流れる。

颯爽と歩む細い肢体を包むのは、山吹の襲ね色目の狩衣だ。

表が薄朽葉で、裏が黄という、女性が多く用いる色目だが、泰明の少女めいた無垢な容貌には、良く似合った。

常の如く、師である晴明の見立てである。

翠の髪に縁取られた美貌や、青(緑)の単の襟元からすんなり伸びる項、袖から覗く指先も、柔らかな陽を受けて、白く滑らかに輝いている。

その麗姿に惹き付けられて、老若男女問わず、すれ違っては振り返る。

だが、大概の者は、その美貌を損なう顔の半面を覆う痣と、人を寄せ付けぬ雰囲気に気圧されて、

すぐに目を逸らし、そそくさと立ち去ってしまうのだった。

そんな泰明に厭うことなく、近付いてくるのは、空飛ぶ鳥や蝶だけだった。

ひたすら足を進める泰明の周りを纏い付くように飛び回り、一通り戯れると離れていく。

そうすると、再び新たな鳥や蝶がやってきて、泰明に戯れ掛かってくるのだ。

それらに泰明は好きなようにさせていたが、京の東、清水寺を過ぎて、更に歩いていくと、

道の両脇にあった木々や草花が減っていき、それに伴って、鳥や蝶の姿も見えなくなった。

木々の間を木霊する鳥の囀りも遠ざかる。

やがて、泰明の目の前に、荒涼たる野が拡がった。

温かい筈の風が、冷えて感じられるのは、陽が翳った所為か、それとも、この場を満たす空気の澱みの所為か。

目に付く至る所に、人の白骨化した遺骸が打ち捨てられている。

中には、骨に至る前の肉や髪を纏いつかせた者、生前とほぼ変わらぬ者もあった。

遠方では、火葬の細い煙が寂しく天に昇っていた。

ここは、京の洛外に存在する風葬の地のひとつ、鳥辺野だ。

死を穢れとする認識が根付いている京の人々は、この地に好んで足を踏み入れることはなく、辺りに人気はない。

しかし、泰明は躊躇うことなく、足を踏み出した。

洛外を歩いていたときから、泰明の耳に届いていた「声」がある。

誰かを呼んでいるような、何かを訴えているような「声」だ。

それを追って、泰明はこの鳥辺野までやって来たのだった。

踏み締める地面の色が白いのは、砕けた骨が砂のようになって、降り積もった所為だろうか。

が、殺伐とした白い荒野を、鮮やかな山吹の狩衣を纏った並ならぬ美貌の麗人が超然と歩む様は、何処か幻夢的でさえあった。

 

やがて、それまで音なき「声」として届いていた「声」が、音を伴って泰明の耳に届いてくる。

 

………ぁあー………

……あーん………

…あぁーん……

 

何処か、この野に幾羽も舞い降りる烏の鳴き声を思わせる声。

子どもの泣き声だ。

間もなく、薄汚れた着物を纏った子どもの小さな背中が泰明の目に入る。

子どもは背を屈め、打ち捨てられて間もない女の遺骸に縋り付いて泣き声を上げていた。

泰明は微かに、柳眉を顰める。

先程まで、ずっと聞こえていた「声」の在処を突き止めれば、その「声」が何を訴えているのか分かると考えていた。

しかし、却って分からなくなったのだ。

この場を満たす死者の霊魂の気配が、生者の魂の「声」を掻き消してしまう。

ならば、本人に問うしかないだろう。

そのとき、微かな風が吹いて、泰明が纏う香りを泣く子どもの下へと運んだ。

突然漂ってきた芳しい花のような香りに驚いて泣き止んだ子どもは、振り返って泰明の姿を認めると、

泣き腫らした大きな目を零れんばかりに見開いた。

そんな子どもに、泰明は淡々と問う。

「お前は何を望んでいるのだ?」

その問いに、子どもは首を傾げ、それから、その首を振った。

言葉が分からないのだろうか。

泰明もまた、華奢な首を傾げて、どうしたものかと暫し考える。

とにかく、子どもをこのまま、放っておく訳には行かないだろう。

「ここは、お前のような生者がいるべき場所ではない。行くぞ」

近付いて手を伸ばすと、その雰囲気で泰明の言葉の意味を察したのだろう、

子どもは激しく首を振って、女の遺骸にしがみ付き、再び大きな声を上げて泣き出した。

その反応に手を止めた泰明は、困惑気味に眉根を寄せ、翡翠と琥珀の瞳を瞬かせる。

「このまま、この場に留まり続ければ、死者の陰の気に引き摺られて、お前もまた同じ者となるぞ」

理を説いてみるが、子どもは駄々を捏ねるように首を振って、泣き続けるばかりだ。

 

行きたくないと言う者を、無理に連れて行くわけにも行くまい。

或いは、死者と同じ存在になることが、この子どもの望みなのかも知れぬ。

 

そう考える泰明の耳元を、柔らかい風が撫でた。

 

…――

 

ふと、「何か」が聞こえて、泰明は辺りを見回す。

だが、澱む空気の中に、その「何か」を見出すことはできなかった。

やがて、泰明は泣き続ける子どもの小さな背中をもう一度見て、踵を返した。

 


続きます。
かれこれ二年以上振りの花精シリーズ(シリーズなのか?)で御座います。
こちらは何人かの方に、このシリーズの話を読みたいとのリクエストを頂いておりました。
なかなか手を付けられずにはいたものの、我が脳内の妄想荒野の中で種(ネタ?)は芽吹いてはいたのだよ!ということで、
それにやっとこさ、水をやって育ててみましたという感じ。
初っ端から皐月丸が勘当という急展開(?)です。
一方、やっすんは鳥辺野で新たな出会いをします。
一応今回は、後出しオフィシャル設定に対する葉柳流辻褄合わせの話になる筈です(笑)。
裏テーマの「お師匠のやっすんお飾り及び着せ替え遊び」もさり気なく、盛り込んでます。
やっすんには~、黄色も結構似合うと思うのぉ~~♪(誰だよ)

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