花精微睡(後編)
透垣(すいがい)を乗り越えて現れた少年は、庭に佇んでいた泰明と目が合った途端、顔を真っ赤にした。
『り…!』
呼びかけて息を呑み、次いで、音を立てそうなほど大きく首を振る。
その拍子に無造作に一つに括ったままの髪が、木の枝に引っ掛かり、引っ張られる痛みに今度は悲鳴を上げた。
絡まった髪を慌てて解こうとするが、上手くいかないようだ。
頬を染めたまま、向きになって絡んだ髪と格闘する彼を、珍しい動物でも眺めるように見ていた泰明だったが、
彼の顔が次第に泣きそうになってくるのを見て、無意識に手を伸ばした。
少年は驚いたように、泰明を見、絡んだ髪を解いていく細い指先を見た。
相変わらず、赤い顔のまま、それでも律儀に礼を言う。
それから、如月と名乗った少年が色々と話し掛けてきたので、問われるまま泰明は応えたのだった。
己についても、泰明が知っていることは、多くはなかったから、
殆どが「分からない」という応えに終始したのだが。
少年は泰明が人形であることを知っているようだった。
その彼は少し年上ぶって、泰明にこう助言したのである。
『泰明。君は晴明さ…いや、父上のお弟子となるんだろう?それなのに、呼び捨てはおかしいよ』
『そうなのか』
『そうさ。弟子っていうのは、お師匠さまから、その道の極意を教えて貰うものなんだから。
君は現に、父上からひととしての色々なことを教わっているだろう?
だったら、もっと父上を敬わなくっちゃならない』
『「うやまう」…とはどういうことだ。どうすれば「うやまう」ことになる?』
『えっ?う〜〜ん…そうだなあ……』
少年は暫し腕を組んで考え込む。
『「敬う」っていうのは、尊敬すること。
そのひとの持っているもの、例えば、人格とか業績とか…それが自分よりも優れていることを認めること…かな』
『そんけい…すぐれて……?』
泰明の華奢な首が徐々に傾いていく。
『ああもう、そこから説明しなきゃならないのか!……君は父上からひととして色々なことを教わってる。
陰陽師としての知識もこれから色々教わるんだろう?
それはつまり、父上は現時点で君より、ひととして或いは陰陽師として優れているっていうことなんだから……』
『??』
理解できない泰明を前に、少年は頭を抱えながら、ぶつぶつと呟いていたが、数瞬後、勢い良く顔を上げた。
『敬う意味はこれから君が学んでいけば、自然に分かるようになるさ!とにかく!まずは形から入ろう!』
そう言い放った少年に、泰明は「弟子としての在り方」を一通り聞かされたのであった。
「まったく…如月は生真面目ですね」
少々呆れの混じった笑みを零しながら、晴明は脱がせた泰明の衣を手に立ち上がる。
「私が貴方の世話を焼くのは、好きでやっていることですから、あまり気になさらないで下さい。
しかし…彼の言うことにも一理ありますね。
私自身も面白いので、あまり気に掛けてもいなかったのですが、
これから、貴方が邸外へも出るとなると、少しは周りの目も考えなくてはならない」
「如月の言う「一般的な師弟」に見えるよう装うということか」
「その通りです。そうですね…まず、邸外では私を「師匠」或いは「お師匠」と呼んで頂けますか」
「分かった」
「言葉遣いのほうは…面白いからこのままにしましょう」
「?…分かった…」
素直に頷く泰明が、しかし僅かに柳眉を顰めたのを晴明は見逃さなかった。
「どうなさいましたか?何か問題でも?」
「私は…「装う」ということに慣れていない。それ故、お前の言葉どおりには出来ないかもしれない。
時と場合に合わせてとなれば…ますます難しい。その度ごとにお前の手を煩わす結果となるだろう」
「…そうでしたね、貴方は……軽々しいことを申しました」
「謝ることではない」
泰明の言葉に、それでも、晴明は恐縮するように目を伏せた。
神は決して嘘を言わない。
それ故、何かを「装う」こともしない。
ひとであれば、軽い気持ちで出来ることが、この神には途方もなく難儀な行為であるのだ。
神と人の違い。
そのことを泰明自身も気付いているのだろう。
僅かに俯いて考え込む素振りを見せた後、彼は思い掛けないことを言った。
「この身体を得る以前の私の記憶を封じるのはどうか」
「…今、何と仰いましたか」
驚いて訊き返した晴明を、泰明は静かな眼差しで見据える。
「お前の言う「神」としての記憶が、「ひと」として生きる為には邪魔となる。
ならば、その記憶を全て封じれば良い」
「しかし、それは…」
「出来ぬか」
「…いや、出来ないことはないでしょう。難しいとは思いますが…」
何せ、神の記憶である。
ひとでさえ、記憶を全て術で封じることは簡単ではない。
ましてひととは比べ物にならないほど悠久のときを経た神の記憶を封じるのに、
どれだけの能力がいるのか、見当もつかない。
しかし、晴明が彼の記憶を封じることを躊躇う理由は他にもある。
悩みに捕らわれる晴明を余所に、泰明は己の記憶に全く執着を見せなかった。
「私が手を貸そう。そう難しいことではない。問題ない」
無造作なほど素っ気無く言い放つ。
「……」
晴明は目の前の妻に良く似た、しかし、明らかに妻とは違う魂を宿す美貌を、暫し黙して見詰める。
泰明の神としての悠久の記憶。
それを彼は簡単に捨ててしまおうとしている。
記憶は、ひとりひとり違う。
その姿かたちや声と同じように、ひとりのひとを「そのひと」たらしめるものだ。
それを全て奪うことは、そのひとのそれまで形成してきた人格全てを奪うことに等しい。
それとも…神にはひとの論理は当て嵌まらないのだろうか。
神の記憶はひととは違うかたちをしているのだろうか。
それらは彼らにとって、ひとが思うほど重要なものではなく、だから、これほど軽く扱えるのか。
いや…違う。
彼らは…泰明は知らないだけだ。
それが重要なものであることを。
それを全て失うのがどういうことかということを。
執着するという感情も。
しかし、それはひとの側からの感傷的な解釈でもあるのだろう。
泰明の今持つ記憶が、ひととなる為には障害になるだろうことは確かだ。
「…分かりました。貴方がそう仰るなら」
泰明の提案に、晴明は静かに頷いた。
着替えを終えた泰明は、再び擦り寄ってきた伽野を抱き上げる。
優しい手付きで、猫の耳の後ろを撫でてやっている。
これから神としての過去から完全に決別するというのに、やはり、彼には何の気負いも窺えない。
しかし、彼自身の助けを得た記憶の封印は、完全なものにはなりえないだろう。
彼が「ひと」となれば、「優しさ」や「敬う」ことだけではなく、ひととして重要なものや、「執着」も知る筈だ。
「愛しさ」も。
「怒り」や「悲しみ」も。
そして、いつか、彼自身の意志で記憶を取り戻す日が来る。
彼はひととしての感情を以って、己の過去を、現実を見ることになるだろう。
泰明の無邪気な姿を眺めながら、ポツリと晴明は呟いた。
「いつか、貴方が私を殺したいほど憎む日が来るかもしれませんね」
神であった彼を捕らえた自分を。
「分からないことを言う」
呟きを捉えた泰明が、細い首を傾げる。
それに晴明は、ただ笑みだけを返した。
それでも、彼は素晴らしい「ひと」になるだろう。
そうなった姿を見届けたい。
いつか、全てを知った彼が自分を憎む日が来るそのときまで。
叶うなら自分が利花の元へ行けるときが来るまで。
彼には「ひと」として生き続けて欲しい。
そして、出来うるなら、叶う限り。
床に桔梗の花が落ちていた。
泰明の脱いだ衣に付いていたものだろうか。
晴明はそれを壊さぬようそっと拾い上げる。
土から離れても尚、瑞々しさを失わぬ花。
それを、晴明は泰明の艶やかな髪へと飾った。
叶う限り、「幸せ」に。
やっすんお飾りのトドメ(?)は髪にお花で♪ …って、メインはそんな話じゃないのよ!!と、相変わらずの一人突っ込みでお届け致します(苦笑)。 さて、「花精微睡」は、今回で終了で御座います。 やっすん生誕に纏わる話も、一応終了です。 来年、この話の続きを書くことは恐らくないでしょう(いや、リクエストがあれば考えないでもないですが)。 くどいようようですが、これからやっすんは、 他作品のともやすやてんやすやよりやす等々のやっすんになる訳です。 お師匠の願い通り、「幸せ」になるのです♪ 補足(…をしなければならない不完全な作品/汗)。 如月丸は弟くんです。名前だけ出た皐月丸が兄。 この如月丸が、将来、つぐりんを造ってくれたお師匠となります。 そんな無謀なことをするのはきっと、弟の方だ(勝手な解釈)。 この話では、割と拘りなくやっすんと接している彼ですが、 その後、色々と複雑な感情を彼に対して抱き始めてしまう模様(メモリアルブックによると)。 何だか、利花にも想うところ(憧れ?思慕?)があったみたいだしね! つぐりん誕生当時の彼は、青年であることを強く希望!!ということで、 やっすん誕生当時の如月丸は元服前という年齢設定にしてみました。 とはいえ、十五歳くらいです。皐月丸は十六か十七で。 一般に霊力が高いといわれる童子にあやかって、二人とも童形の期間が長かった、という設定(また設定か)。 つぐりんを造ったときは二十七歳だね!!若さ故の無謀か……←? …この辺りのネタは補足、というよりは蛇足ですな(苦笑)。 この話、色んな意味で、詰め込み過ぎで、分かりにくい部分もあったかも……(汗) 突っ込みどころも満載です!!(技とそのようにした部分もありますが) そんな代物でも、最後までお付き合い頂きました方!本当に有難う御座いました!!(平伏) この期に及んでも(?)、やっすんへの愛は止まることを知りませんので(笑)、 これからも色んな側面から彼を愛でていきたい!! …と気持ちも新たにしたところで、締めとさせて頂きたく。 前へ 戻る