桔梗姫廓語 弐〈初雪〉
ふと、長い翡翠色の睫を僅かに震わせて、泰明は眼を開いた。
部屋の中は薄暗い。
しかし、障子の丸窓越しに外の仄かな明るさと、静かな気配が感じられる。
起き上がった泰明は、上掛けにしていた緋色の袿を羽織りながら、窓に近付き、そっと障子を開ける。
途端、冷たい外気と共に、ふわりと舞い込んだ白い欠片に、泰明は目を瞠った。
窓枠に細い指を掛け、外を見る。
眠りに就いた朝の花街は、しんと静まり返っている。
今は行き交う人のない通りを、その両脇に立ち並ぶ妓楼の黒い甍の屋根を、空から舞い落ちる雪片がゆっくりと染めていく。
その光景を目にした泰明の翡翠と黄玉、二つの貴石を並べたような瞳が煌いた。
まだ、起き出すには早い時刻だが、寝てなどいられない。
泰明は手早く身支度を整えると、そっと部屋を抜け出した。
「…おや、やけに冷え込むと思ったら、雪か…」
窓から外を眺めて、友雅は僅かに苦笑する。
せっかくの愉しい夢路の途中で、現に引き戻されてしまった。
例え、もう一度寝付いたとて、腕をすり抜けた夢が戻ってくるとは限らない。
少々早いが、潔く起きた方が良いかもしれない。
ゆっくりと身を起こしながら、夢の中で寄り添っていた恋人のことを考える。
この初雪を目にしたなら、彼はさぞ喜ぶことだろう。
彼が目を覚ますまで、止んでしまわなければ良いが。
そんなことを考えるともなしに考えていると、部屋の戸が小さく叩かれた。
次いで、
「友雅…」
名を呼ぶ静かな、しかし、明瞭な声。
「泰明?」
ちょうど今心を占めていた恋人の声に僅かに目を瞠り、戸を開ける。
白く染まり始めた中庭を背景に、桜色の頬を上気させた泰明が佇んでいる。
澄んだ玉のような瞳を煌かせて、
「友雅、雪だ」
白く染まる花の香りを纏った吐息と共に、言う。
華奢な体躯に、雪華の浮文様のある白い着物を纏い、幅広の鳥の子色の縮緬と、金糸銀糸の組紐で細い腰を飾り、
その上に膝丈程度の白無地の着物を羽織っただけの姿だ。
翡翠の絹糸のごとき髪は梳き流したまま、滝のように細い背を流れ落ち、
幾束かが、白い着物の肩や胸元に波紋を描くように降り掛かっている。
雪の精霊が現れたかのような姿に、思わず目を奪われる。
しかし、床に引き摺る着物の裾の合間からほんのりと染まった指先が見えて、我に返った。
やや呆れたように吐息を吐く。
「全く君は…ひとりでここまで来るのなら、足袋くらい履きなさい。その上、このような薄着で…」
「問題ない。寒くなどない」
「こんなに肌を冷やしておきながら、何を言っているのかな」
毅然と言い返す泰明に苦笑して、冷えた細い手指を捕え、やんわりと引く。
「雪にはしゃぐ君の気持ちも分からないではないけどね、身体を悪くしてしまっては、元も子もないだろう。おいで」
「!」
こちらに僅かに傾いた細身を捕えて抱き上げると、そのまま部屋の中へ運ぶ。
そうして、外が見える窓際の柔らかな敷物の上に華奢な身体を下ろし、寒くないよう熾したばかりの火鉢を寄せてやる。
不意を突かれて、きょとんとしていた泰明は、そこで友雅の意図に気付き、にこりと笑った。
友雅もまた、泰明の隣に腰を下ろし、肩を引き寄せて、己の袖で包むように、細い身体に腕を回した。
窓枠に切り取られた雪景色に見入っていた泰明が、ふと、子猫のような風情で目を細める。
「温かい」
「ほら、やはり寒かったのだろう?」
「……」
からかうように言うと、泰明は気まずげに黙り込んだ。
友雅は微笑んで、流れる髪に指を絡めて梳き、細い背を撫でる。
「何時まで経っても君はこどものようだね」
今や、泰明はこの花街にある花妓の中で、並ぶ者のない唯一の花姫、「桔梗」であるというのに。
泰明が少々困ったように首を傾げる。
「いけないだろうか?」
「いいや。だが、そのような姿を見せるのは私だけにして欲しいね」
「?」
更に、無垢な様子で細い首を傾げる泰明に、友雅は笑みだけを返す。
そっと身を屈め、翡翠色の髪の合間から覗く形の良い耳に、唇を寄せた。
「もう寒くはない?」
「大丈夫だ。友雅がこうしていてくれるから」
「そうかな?まだ、冷たいよ?」
囁きながら、耳元に口付ける。
「あっ…?」
薄い貝殻のような耳が、瞬く間に薄紅に染まる。
僅かに震えた細い身体を、友雅は更に引き寄せた。
そうしながら、空いている手で、白い着物の滑らかな布越しに、細い身体の線を辿る。
「この天華を早々に溶かしてしまうのは聊か無粋かな…」
けれど、このように咲かれては、触れずにはいられない。
囁き声と共に、辿り着いた着物の裾を弄んだ指先が、するりと内に滑り込んだ。
「あ…っ…待って、とも…」
僅かに羞恥を孕んだ囀りが耳に心地よい。
それを封じるのを、惜しく思いながら、友雅は言葉を紡ごうとする紅の花弁を、己の唇で塞いだ。
雪は昼過ぎまで降り続け、夕方近くに止んだ。
しかし、営業に支障が出るほど降り積もることはなく、花街に常とは違う彩りを添えてくれている。
夕刻になると、藤茶屋の鷹通が、桔梗の旦那の一人である永泉の伝言を持って妓楼へやってきた。
今宵は庭に面した座敷で、雪見を兼ねた宴を催したいとの誘いである。
永泉が宴を催すのは、久々だ。
側仕えの秋津を通して、誘いを受ける返答をし、泰明…桔梗は、月琴を爪弾いていた手を休める。
外を見ると、白く染まった世界が見えた。
月琴を置いて、すらりと立ち上がった桔梗を、おとなしく控えていた詩紋が見上げる。
「桔梗姫?」
問うような呼び掛けに、桔梗は僅かに花弁のような唇を綻ばせた。
「中庭の見える回廊まで行く。付き添いは不要。お前たちはここに居てくれ」
秋津が何か言い掛けるのを制して、言葉を継ぐ。
「勿論、下働きの雇い人に見られないよう充分注意する故。技楼の外にも決して出ない。駄目だろうか?」
僅かに首を傾げて請われては、厳しいお目付け役も形無しだ。
秋津は表情を緩めて、溜息を吐く。
「仕方がありませんね…ですが、お部屋の外に出るのでしたら、厚手の着物を一枚、お召しになってください」
そう言って、表が白、裏が青(緑)の笹青の袿を取り出し、詩紋とふたりで桔梗に着せ掛ける。
それから、流したままになっている髪の左右の鬢だけを、後頭部で結い上げ、水晶の玉を通した白銀の飾り紐で結んだ。
最後に床に流れる裾を整えられて、やっと桔梗は部屋を出ることが出来た。
妓楼の外に出る訳でもないのに、大した手の込みようだ。
廊下を微かな衣擦れの音と共に歩みながら、桔梗は僅かに苦笑する。
しかし、花街唯一の花姫の側仕えとしての面子に掛けて、楼内であろうとも、
主人の身支度を疎かにはすまいとする秋津らの気持ちは察せられるので、文句を言う訳にもいかない。
一方で、美しい主人をどんなときでも美しく着飾らせたいという想いも秋津らには強くあるのだが、そのことには桔梗は気付かない。
勝手知ったる楼内を、人目に触れることなく進み、中庭を見渡せる回廊へと出る。
枯れ木や庭石、地面を綿のような雪が覆い、淡い夕陽に煌いていた。
飽くことなく、雪の庭を眺めていた桔梗は、ふと微笑んだ。
身支度を手伝った詩紋の言葉を思い出す。
『今日の桔梗姫は何だか楽しそうです』
実際、朝から浮き立つような気持ちが続いている。
それが知らぬ間に、表情にも出ていたようだ。
だから、友雅にこどものようだと言われてしまうのだろう。
しかし、雪はいつも見慣れた景色を一変させる。
それが不思議で、珍しくて、楽しくて、雪が降るたび、はしゃいでしまうのだ。
やがて、陽が翳り始めた。
そろそろ部屋に戻って、宴の支度をせねばなるまい。
妓楼の裏口に面した階段を上ろうとした折に、扉を隔てた裏口から、話し声が聞こえた。
柔らかな艶を帯びた声音は楼主の友雅のもの。
もうひとつは…
「見てくれよ、ご主人!こいつは特に、自慢の一品なんだ!!桔梗姫に付けて貰いたいと思って作ったんだぜ!!」
初めて聞く威勢の良い少年の声だったが、己の名が出されたのが気になって、桔梗はそっと戸を開けた。
「桔梗姫」
振り向いた友雅が軽く目を瞠ってから、僅かに表情を厳しくする。
「何をなさっているんです。貴方はこのようなところに顔を出してはいけない」
「すまない。だが、通りすがりにでも己の名を聞けば、気にせずにはいられまい」
楼主の諫言を、桔梗は花姫の顔で毅然と躱し、堂々と進み出る。
表口よりは狭いが、充分に幅を取ってある板の間に、裾を乱すことなく、滑らかに腰を下ろした。
友雅は仕方ないというように、溜め息を吐いて、表情を緩める。
「桔梗姫、こちらはイノリ。朱離房の簪職人です。
先年見習いから一人前になったばかりだが、腕の良い職人でしてね。この通り幾つか品物を持ってきてくれたのですよ」
す、と桔梗の眼差しが動いて、板の間の上がり框に軽く腰掛けた緋色の髪の少年へと向けられる。
噂に名高い桔梗姫の美しい眼差しに見詰められて、少年…イノリは頬を紅くした。
が、次の瞬間に我に返って、赤い瞳を輝かし、身を乗り出す。
「あんたが桔梗姫か!遠目でしか見たことなかったけど、近くで見ても、やっぱり凄い別嬪だ!!」
「私の為に何かを作ったと聞いたが…」
「ああ!この簪なんだ、見てくれ!!」
桔梗の問いに、勢い良く頷いて、イノリは手にした簪を差し出す。
と、隣に座る友雅が小さく笑った。
それを一瞬訝しく思いながら、差し出された簪を目にした桔梗の色違いの瞳が見開かれる。
雪華を象った銀細工の簪。
花芯には大粒の白玉が埋め込まれ、小さな白玉と水晶を交互に連ねた瓔珞が花弁と花弁の間を繋いで、その端をゆったりと垂らしている。
声もなく見入る桔梗に、イノリは照れたように空いた片手で頭を掻く。
「花妓の簪にしちゃ、地味な色合いかもしれないけどさ、あんたは元々宝玉みたいな綺麗な髪をしてるし、
六つの花の儚さが、あんたの持つ雰囲気に重なるような気がして…って、天下一の花姫に儚いって言い方は拙いか」
「いや…」
首を振り、ひたすら簪に見入る桔梗に、イノリは少々不安そうな顔になった。
そんな年若き職人に、宥めるような笑みを向けてから、友雅が桔梗に声を掛ける。
「如何ですか、桔梗姫?」
その問いにふっと、桔梗が顔を上げる。
傍らの友雅を見、次いで正面のイノリを見て、ゆっくりと微笑んだ。
「美しい品だな。有難う、とても気に入った。早速今宵の宴で身に着けようと思う」
花のような笑みに、イノリは呆気に取られたように見入り、再び顔を紅くする。
その後にやっと桔梗の言葉が理解できたのか、紅くなった顔いっぱいに喜びの表情を浮かべた。
「やったあ!!自信はあったけど、やっぱり少し不安だったんだ!
あんたのためにって、精魂込めて作ったものを気に入って貰えて嬉しいぜ!!職人冥利に尽きる!!」
賑やかに喜ぶイノリの声音に紛れるように、友雅の笑み混じりの囁きが桔梗の耳に入る。
「やはりね。きっと君は気に入るだろうと思っていたよ」
凛然としていた泰明の滑らかな頬に、仄かに朱が注した。