藤波

 

「夜勤は交替か?安倍」

更衣室から出たところで、泰明は同僚の医師から声を掛けられた。

「ああ、今から帰る」

「ひとりでか?迎えとかは…」

「ない」

羽織ったジャケットの襟を整えながら、泰明が歩き出すと、

「じゃあ、途中まで一緒に帰ろうぜ。俺も今、帰りなんだ」

同僚は返事を待たずに、泰明と肩を並べて歩き出した。

常夜灯と誘導灯に照らされた病院の静まり返った廊下に、ふたり分の靴音が響く。

「ところで安倍、大分キツい勤務日程を組んでるみたいだけど、大丈夫なのか?」

「問題ない」

「だけど、そんな細い身体で…」

そう心配げに問う同僚は、背が高く逞しい身体つきだ。

そんな彼が、背が高くとも、ほっそりと華奢な身体つきの泰明を案じるのは、無理もない。

何しろ、医師…特に外科医師は体力勝負なのだから。

同じ職場に勤める仲間としての好意なのだろう、彼はこうして頻繁に泰明に声を掛け、気遣ってくれる。

「問題ない。これでも無理のない日程を組んでいる。…大丈夫だ」

淡々と答えた泰明は、自分の身を心から案じてくれている同僚への感謝を込めて、ほんの僅か微笑んだ。

その瞬間、微笑まれた同僚が僅かに頬を染めたが、薄暗がりの所為で、泰明は気付かなかった。

「…あ、安倍!」

職員専用出入口に辿り着いたところで、同僚が思い切ったような声を上げる。

「何だ?」

扉を開けながら、泰明は怪訝そうに柳眉を僅かに顰める。

「外は暗いし、ひとりだと危ないだろ。良かったら俺が家まで送って…」

気負い込む同僚の言葉が不自然に途切れた。

彼の視線の先を追った泰明は、長い睫に縁取られた大きな瞳を二三度瞬かせる。

「天真」

通用口正面の低いガードレールに、長い脚をもてあますようにしながら、

明るい茶色の髪の背高い青年が軽く腰掛けていた。

「どうしたのだ?」

「どうしたのだって、お前を迎えに来たんだよ」

泰明の問いに無造作に答えながら、天真は泰明の隣に佇む同僚を、鋭い眼差しでちらりと見遣る。

「…あ〜…じゃあ、迎えが来たんなら、俺はこれで。またな、安倍」

「?ああ。では、また」

急に歯切れ悪い口調になった同僚に首を傾げつつ、泰明はその場で彼と別れる。

心なしか肩を落とした後姿が曲がり角で消えるまで見送ってから、泰明は少し不機嫌そうな様子の天真に振り返った。

「昨日はレースなのではなかったか?」

「ああ」

「ならば、疲れているだろう。無理せず、寝(やす)んでいれば良かったのだ」

「それほど疲れちゃいないさ。暗い夜道をひとりで帰る恋人が、暴漢その他に襲われないよう、迎えに来たっていいだろ」

「私は子供ではない。万一暴漢に襲われても、己の身くらいは守れる」

「んなことは分かってる。けど、そんな危険な目に遭いかねない状況にお前を置いとくこと自体、俺は我慢ならねえんだ。

…もっと我慢ならねえのは、送り狼になりかねない奴をお前に近付けることだけどな」

「?おおかみ…?何故、そこに狼が出てくるのだ?」

「いや、こっちの話。お前が分かってないんだったら、それで良い」

子供ではないと言いつつ、子供のように無邪気な様子で大きな目を瞬く泰明に、そう答えて、天真は立ち上がる。

「なあ、寄り道しても良いか?」

すぐに気持ちを切り替えたのか、天真は常どおりの明るい声と表情で、

傍に停めてあるバイクに向かいつつ、泰明に問い掛ける。

ぽんと投げ渡されたヘルメットを受け取って、泰明は華奢な首を傾げる。

「構わないが…何処へ行くのだ?こんびにか?」

泰明の問いに、天真は出会った頃と変わらない悪戯っぽい笑みを閃かせた。

「それは着くまでのお楽しみ。さ、行くぜ」

何処へ行くのだろうと、天真が行こうと誘うのなら、断る理由はない。

差し出された大きな手に、泰明は素直に、白くほっそりした手を乗せた。

 

 

住宅街の通りに入ると、夜更けであるだけに、人は勿論、車の通りも殆ど無くなる。

ただ、天真と泰明を乗せたバイクだけが、軽いエンジン音を立てて走り抜けていく。

天真に掴まりながら、泰明は顔を上げて、ヘルメットのシールド越しに空を見上げる。

晴れた夜空に、青味を帯びた白い月が皓々と輝いている。

今夜は満月だ。

次いで視点を転じて、両脇を通り過ぎていく並木を眺める。

それらは皆、桜の木だ。

花の頃を過ぎた木々は今、緑の葉に覆われている。

その様子を見て、泰明はやっと、今年の桜が咲いて散ったことに気が付いた。

 

天真も泰明もそれぞれお互いの仕事で忙しくしているのが常だったが、

それでも、春の花の時期には何とか都合を付けて、短くともふたりだけの花見の時間を毎年作っていた。

しかし、今年は例年以上に忙しくて、その余裕がなかった。

それだけふたりで過ごす時間が少なかったということだ。

 

改めて気付かされた事実に、泰明は一抹の寂しさを覚える。

同時に、今天真がすぐ傍にいてくれるこの時間が嬉しくて、一層大切に感じられた。

泰明は少しだけ天真の背中に顔を寄せ、回している腕にそっと力を込めた。

 

 

バイクは住宅街の中にある公園の入口で止まった。

脱いだヘルメットを天真に渡しながら、泰明は周囲を見渡す。

通勤途中にこの公園の入口を通り過ぎることはあったが、入ってみるのは初めてだ。

「ここが目的地か」

「正確にはもうちょっと先だ」

バイクを通行の邪魔にならないように歩道脇に停めた天真は、泰明の手を取って、公園の中へと足を踏み入れる。

人気の無い夜の公園は、青白い月の光に染められながら、静まり返っていた。

まるで、ここだけ時間が止まっているかのような気にさせられる。

時折、通り過ぎる夜風が、木立にささやかな葉擦れの音を響かせ、乗り手のいないブランコを微かに揺らす。

耳を澄ませば、人工的に造られた川のせせらぎも聴こえてくる。

しかし、それらの音も皆、辺りを覆う静寂に紛れ、呑まれていく。

 

 

「…あ」

ふいに、泰明が声を上げた。

天真が振り向いて微笑む。

「はい、到着」

泰明の視線の先、ふたりの正面に、藤棚があった。

ちょうど花の盛りを迎えた紫の花房が、棚の端からも零れんばかりに幾つも垂れている。

視点を少し上げると、白く丸い月。

降り注ぐ月光に波立つように照り映える藤の花。

 

「結構良い眺めだろ」

天真の声に、はっと我に返った泰明は頷く。

「…綺麗だと思う」

僅かに白い頬を紅潮させて答えた泰明に、天真は少し照れたように笑う。

泰明の手を引いて、藤棚の下に設えてあるベンチにふたり並んで腰を掛ける。

今度は下から零れ落ちてきそうな藤の花を眺め、泰明は思わず感嘆の溜め息を付いた。

咲き乱れる花と棚に絡む蔓と葉の合間から月光が差し込んでくる。

そうすると、紫の花々にも微妙な陰影が付いて、正面から見たのとはまた違った美しさとなる。

色違いの瞳を輝かせて、花に見入る泰明を見て笑い、同じように花を見上げながら、天真が口を開く。

「今年は忙しくて、結局桜は見逃しちまったけど…こういう花見も良いだろ?」

その言葉に、泰明は、はっとして、天真へと視線を戻す。

 

では、天真も気にしていてくれたのだ。

ふたりで過ごせなかった時間を。

 

「あ〜…綺麗だなぁ」

泰明の華奢な手を、ずっと握っていてくれる天真の手。

そろそろ夏へと向かう季節ではあるが、その手の温かさは心地良い。

「夜桜ならぬ夜藤見物って奴だ。これもなかなか乙なもんだろ?」

視線を戻した天真は、泰明と目を合わせて、にやりと悪戯っぽく笑ってみせる。

そんな天真を見詰め返し、泰明はゆっくりと、花が開くように、唇を綻ばせた。

「有難う、天真…嬉しい。ふたりでこんなに綺麗な藤を見ることができて。

何よりも、こうして天真と同じ景色を共有できることが嬉しい。天真がいるから…きっとこの景色も美しく見えるのだ」

 

甘い花の香りを纏った夜風が、微笑む泰明の艶やかな髪を梳き靡かせる。

藤陰の下、花越しに零れる月光に、白い美貌が仄かに輝く。

息を呑むほど艶麗な容姿(すがた)とは対照的に、その微笑みは無垢で、

澄んだ瞳は煌きながら、天真を真っ直ぐに見詰めている。

 

ふいに天真が空いている片手で長い前髪を掻き回すようにしながら、顔を伏せた。

「?どうしたのだ?」

泰明がきょとんと首を傾げて、天真の顔を覗き込む。

天真の頬が僅かに紅いようだ。

「あ〜…参った。そんな顔でそんなこと言われたらな…」

「天真?具合が悪いのか?」

見当違いの心配をした泰明が、ぱっと身を起こして、様子を診ようと握った手を振りほどこうとする。

その手を強く掴んで、天真は華奢な細身ごと自分の腕の中に引き寄せた。

「てん…ッ!」

泰明が驚く間もなく唇を塞がれる。

「おい、どうしてくれる?」

唇を少しだけ離して、天真が囁く。

「せっかくの滅多にない綺麗な夜藤だってのに、もっと綺麗なもんを見付けちまったじゃねえか」

「…どういうことだ?」

「ま、それは先刻百も承知の上ではあるんだけどな」

「…?何が…」

にっと、もう一度悪戯っぽく笑った天真は、相変わらず訳が分からずにいる泰明の問いを封じるように、

再び柔らかな花弁のような唇を塞いだ。

華奢な身体を包むように両腕で抱き締めると、細い腕が背中に回され、

細い指がしがみ付くように天真の服の布地をきゅっと掴む。

 

月よりも花よりも綺麗な泰明。

 

甘い夜風が通り過ぎる。

ふたりの頭上で、藤波がさざなみのような音を立てた。

 


御覧下さいまして、有難う御座います♪
復活キリリク、28000番を御申告くださったのは、らあ様でした。
「天真とやっすんの現代バージョンのお話」とのリクエストでしたので、現代版てんやすカップルが、
夜桜見物ならぬ夜藤見物をする、ほのぼのらぶらぶなお話にしてみました♪
藤はふたりの好きな花でもありますからね、桜よりも、よりしっくりするのではないかと思いまして。
…が、ここ十数年(!)、まともに藤の花を見ていないので、
その描写にはあまり自信がありません、申し訳ありませぬ…(汗)
兎に角!!
天真にとっては、好きな藤よりも何よりも、やっすんが一番綺麗なのだということで!!(お約束♪)

この現代版てんやす設定は、前回キリリク『Crazy for Honey Kitty!』と同じです。
オフィシャル設定より数年を経ているので、天真にもやっすんの恋人として、少しだけ余裕があるよう?
しかし、相変わらず無邪気なやっすんの殺し文句には、ノックアウトされっぱなしのようです(笑)。
そして、相変わらず、やっすんを狙う狼ども(笑)を近付けさせまいと、
忙しい合間を縫っては、監視の目を光らせてもいると(苦笑)。
苦労の耐えない天真ですが、
それもこれほど可憐な姫を恋人に持った幸せ者の宿命として諦めてもらいましょう♪(勝手な/笑)

改めまして、らあ様、リクエスト有難う御座いました!!(平伏)
お待たせいたしまして、申し訳ありません(汗)。
少しでも、お楽しみいただければ幸いです♪

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