王の宝珠 4
はっとしたようにセフルが振り返る。
そして、声を掛けてきた人物を認めた瞬間、その蒼い瞳が吊り上った。
「イクティダール!僕の邪魔をしに来たのか?!」
「そうではない。泰明様を迎えに来ただけだ」
「同じことじゃないか!」
落ち着き払ったイクティダールの返答に、セフルは濡れた髪を振り乱しながら、怒鳴る。
そうして、傲然と腕を組み、嘲るように鼻を鳴らした。
「僕はお前が宰相だからって、畏まったりはしないからな!僕が心からお仕えするのは、アクラム様だけだ。ましてや…」
「そのくらいにしておけ、セフル」
鋭い眼差しをイクティダールから傍らの泰明へと向けて、言い募ろうとしたセフルを、イクティダールがやんわりと遮る。
セフルは一層目を吊り上げ、イクティダールの言には構わず、言葉を継ごうとした。
しかし。
「騒がしいことだな…」
冷ややかな声が聞こえ、イクティダールの背後の岩陰から背高い人影が現れた。
「あッ!!」
セフルは驚いて、慌てたように口を噤む。
泰明はゆっくりと睫長い瞳を瞬かせ、その名を呼んだ。
「アクラム」
「迎えに来たぞ、泰明」
そう言いながら、アクラムは足場の悪い岩場を滑らかに歩いて、泰明の前へと立った。
「何も忙しいお前自らが、来ることはなかったではないか」
「そう思うのなら、あまり周囲に心配を掛けぬことだ。侍女がお前がなかなか戻らぬと、宰相に相談に来たのだぞ」
「そうか…」
泰明は困惑したように俯いた。
「ここは城から目と鼻の先ゆえ、問題ないかと思っていた。このようにお前の手を煩わすことになるとは…」
「これしきのこと、煩わすうちには入らん」
素っ気無く言いながら、アクラムは泰明の頬へと手を伸ばす。
白く整った指先が、触れるか触れないかの軽さで滑らかな頬を撫で、翡翠の髪を柔らかく梳いた。
その仕種に宥められて、泰明はそっと顔を上げる。
氷のようだと評される美貌。
しかし、泰明を見詰める青い瞳には、確かに温かい光が垣間見えた。
応えて、泰明は、はにかむように微笑んだ。
無垢な笑みに、アクラムの瞳が僅かに細められる。
間に入れない空気に、セフルが居心地悪げに身動きをした。
それに気付いたイクティダールが、密かに苦笑する。
そうして、小さく咳払いをして、アクラムに声を掛けた。
「陛下。そろそろ、城に戻りませんと」
「分かった」
肩越しにイクティダールを一瞥し、アクラムは頷いた。
泰明が無意識に瞬きをしたそのとき、身体がふわりと浮き上がった。
翡翠色の長い髪と虹色のドレスの裾もふわりと舞う。
「あッ?!」
驚きに見開いた泰明の目に間近に見下ろす青い瞳が映った。
そこで、ようやく泰明は己の状況を理解し、慌てて口を開いた。
「下ろせ、アクラム。一人で歩ける」
「その言を受け入れる訳にはいかんな」
泰明の言をあっさりと切り捨て、アクラムは細い身体を抱えたまま歩き出す。
泰明は居心地悪げに身じろいで、呟くように言い返す。
「また、お前の手を煩わしてしまう…」
謙虚に過ぎる泰明の言葉に、アクラムは思わず溜息を吐く。
「良いか、お前が自ら歩けば、足がますます汚れる。そうなれば、私だけではなく、お前の侍女の手をも煩わすことになる。
お前はそれで良いのか?」
泰明は口を噤み、首を振った。
「ならば、おとなしくしておけ」
今度は泰明は素直に頷いて、力を抜いて、アクラムに身体を預けた。
「…すまない。有難う」
ことんと小さな頭をアクラムの肩に凭せ掛けながら、アクラムを見上げ、小さな声で言う。
その可憐な様に思わず、アクラムは微苦笑する。
「礼なぞいらん」
本当なら、泰明が自分で歩こうと歩くまいと、さほど足の汚れに差はない。
侍女は張り切って湯浴みの支度を整え、泰明の帰りを待ち侘びていることだろう。
それは侍女が自ら望んでしていることだ。
己もまた、執務に区切りが付き、一刻も早く泰明の顔を見たかった。
だから、こうして迎えに来たのである。
己の望みを叶える為の手間を惜しむ者はいない。
そのことに泰明が感謝したり、ましてや謝罪する理由は全くない。
ふと、アクラムは軽く眉根を寄せた。
己の勝手を通しておきながら、泰明の勝手を許さぬのは理不尽だろうか。
「アクラム?」
ほんの僅かな表情の変化に気付いた泰明が、怪訝そうに呼び掛ける。
「埒もないことだ。気が向いたら話す」
そう応えて、アクラムは再び歩き出す。
が、
「あ…」
泰明の小さな声に気付いて、立ち止まった。
腕の中の美姫が気掛かりそうに見遣る先。
アクラムは今度こそ苦笑した。
己に嫌がらせを仕掛けた相手を心配とは。
とはいえ、当の泰明自身は嫌がらせを受けたなどとは、微塵も感じていないのだろう。
アクラムは、泰明の視線を追うように、肩越しに背後を振り返った。
護衛の為に、影のように傍近く控えるイクティダール。
更にその向こうの岩場では、セフルが身を固くしたまま、立ち尽くしていた。
濡れた髪先から、雫が滴っている。
「セフル」
呼び掛けると、少年らしい細い肩がびくりと震えた。
恐る恐る目を上げて、僅かに震える声で呼び掛けてくる。
「ア…アクラム様……」
主の叱責を怖れ、捨てられることを怖れる飼い犬のような眼差しだ。
ならば、最初から泰明に手を出さねば良いものを。
そう思わないではなかったが、こう縋り付くような目で見られると、断罪する気が殺がれた。
泰明への嫌がらせも、主への強い崇拝から生まれたであろうことは分かっている。
それでも、度が過ぎた嫌がらせならば、赦す訳にはいかないが、実際はお粗末なものでもある。
アクラムは呆れた溜息を一つ吐き、言葉を発した。
「何をしている。城に戻るぞ。風邪を引きたいのなら、そのままそこにいても構わぬがな」
「はっ、はい!」
皮肉めいた言葉だったが、セフルの表情は、ぱっと明るくなった。
イクティダールが微笑む。
セフルが歩き出すのを目の端で確認しながら、アクラムは歩き出す。
腕の中で小さく安堵の溜息を吐く泰明。
再び、苦笑がこみ上げるのを堪えながら、アクラムは心中で呟いた。
(何とも、長閑なことだ……)
闇の向こうから、波が打ち寄せる音が聞こえてくる。
その夜、泰明はバルコニーの手摺に軽く腰掛け、波音に耳を傾けていた。
心地良い夜風が、洗い立ての髪を梳き、秀でた額を晒す。
その高貴で、優美な横顔。
薄い夜着の裾も、風を孕んで、優雅に翻る。
夜の闇に白く浮かび上がる姿は、幻のように美しかった。
ふと、近付いてくる気配に、白く小さな顔が振り向く。
「アクラム」
珊瑚の唇が花のように綻んで、名を呼ぶ。
「あまり長居をしては身体が冷えるぞ」
アクラムが差し伸ばした手に、素直に白い手を乗せる。
軽く引くと、抵抗なく、華奢な身体は腕の中に納まった。
アクラムは片腕で包むように泰明を抱き締め、滑らかな髪を梳くように撫でる。
時折、戯れるように指先に巻き付け、するりと解けていく感触を愉しみながら、アクラムは小さく笑う。
「お前は良く良く海が好きと見える。生まれ故郷であれば、それも無理はないか…」
ごちるように呟くアクラムを、泰明は心なしか不安げな眼差しで仰ぐ。
それを見て、アクラムは僅かに笑みを深くする。
「だからと言って、お前を海に還すつもりはないが」
「私も還るつもりはない」
思い掛けず、きっぱりとした言葉が返ってきて、アクラムは青い瞳を瞠った。
そんなアクラムを真っ直ぐ見詰めながら、泰明はアクラムの衣服の袖を掴んだ手に、僅かに力を篭める。
「私にとって、海は懐かしむ場所ではあっても、還る場所ではない。私が還る場所は…」
懸命に言い募る泰明の言葉を封じるように、アクラムは細い身体を抱き締めた。
「そう何度も言わずとも分かっている」
「ならば、何度も言わせるようなことを言うな」
心なしか憮然として聞こえる泰明の声に、アクラムはくっくっ、と喉を鳴らして笑った。
「そのようなつもりで言ったのではないぞ。ただ…故郷へ還す訳にはいかぬが、散歩くらいは許しても良いか、とな。
今日お前を迎えに海辺へ行ったときに、ふと思い付いた。そのとき、気が向いたら話すと言っただろう。
お前を故郷へ還さぬせめてもの罪滅ぼしという訳だ」
どうだ?と、揶揄するような口調で、腕の中の泰明に問うた。
泰明はアクラムを見上げながら、瞬きを繰り返す。
やや遅れて、アクラムの言うことを理解した泰明の澄んだ瞳が大きく瞠られ、頬が薄紅に染まる。
次の瞬間、弾けるようにその顔に笑みが咲いた。
「これからも海辺に行っても良いのか?!」
「毎日ではないぞ。そうだな…週に一…二回くらいか」
宝石の如く期待に輝く瞳で見詰められ、アクラムは当初考えていたよりも多く海辺に行くことを許してしまう。
我ながら、甘い。
苦笑しようとしたそのとき、腕を伸ばした泰明に抱き付かれた。
「嬉しい!有難う、アクラム!!」
首筋にしがみ付くように細い腕を回され、頬に口付けられる。
「……」
瞳を煌かせながら無邪気にはしゃいでいる泰明を見ていると、幾ら甘かろうが構わないかという気になる。
もともと滅多に我儘を口にしない泰明なのだ、多少甘やかしても、度が過ぎることはないだろう。
「だが、出掛けるときは、私の選んだ供を必ず同行させよ。良いな?」
泰明は笑顔のまま首を縦に振る。
アクラムの唇に皮肉ではない笑みが浮かんだ。
「今からそうはしゃいでは眠れなくなるぞ」
「そうか、そうだな。すまない、だが、嬉しくて……」
「分かっている。さて、そろそろ寝むぞ」
「っ!」
不意に身体を掬い上げられ、泰明は目を瞠るが、すぐに心得たように微笑んで、アクラムの首に腕を回し、素直に身を寄せる。
泰明を軽々と抱き上げたアクラムは、聞こえるか聞こえないかの声音で呟く。
「本当ならば、箱に閉じ込めておきたいのだがな……」
「?何か言ったか?」
呟きを敏感に拾った泰明が、大きな瞳を瞬かせて問う。
閉じ込めておきたいのだ、常に傍に置いておきたいのだ、と。
そう求めれば、恐らく泰明は素直に応じてくれるだろう。
だが、この生きた宝石は、閉じ込めたままにしておけば、その輝きを失くす。
それは、途方もなく罪深いことに思えた。
だから、泰明に、些かの自由を与えることは、仕方のないことなのだ。
「いや。他愛ない戯言だ。捨て置け」
アクラムは気遣う泰明にそう応え、バルコニーから室内へと戻った。
白いレースのカーテンが夜闇に鮮やかに翻る。
誰もいなくなったバルコニーでは、波の音が繰り返し寄せ続けていた。