陽だまり

 

 最後の頁まで辿り着いた本をぱたりと閉じる。

 朝からずっと書庫に入り浸っていた泰明は、ふと明るい窓外を見た。

 気が付けば、太陽は随分と高い位置にある。

「もう昼か…」

 本を書架へと戻し、ずっと座っていた脚立から降りる。

 書庫から出て、台所へと向かった。

 冷蔵庫から朝既に泰明の為に用意してあったグラタンを取り出し、レンジで温める。

それほど腹が空いている訳でもなかったが、きちんと食べないとグラタンの作り主に余計な心配を掛けてしまう。

「…美味い」

 台所の近くにある食卓にきちんと座り、温めたグラタンを口に運びながら、泰明は誰にともなく呟く。

 このグラタンの作り主であるところの頼久は、朝から家に隣接した道場に出ている。

 門下生が多いので、稽古時間も自然多く、長くなる。

 今日も戻ってくるのは夕方だろう。

 そんな忙しい彼であるが、日々の家事の殆どはいつの間にか、彼の役目となっていた。

 泰明も家事が出来ないわけではない。

 しかし、例え休日といえども、いつ急患で現場に呼び出されるか分からない医者という仕事に泰明が就いている為に、

自然そのような形となった。

 泰明の休日である今日も頼久はいつものように、早朝稽古の後に掃除、洗濯、朝食の準備を整え、

更に泰明用の昼食まで準備して道場へと出て行った。

 今日は泰明もそれらを手伝ったのだが、いつも頼久が一人でこれらの家事をこなしていることに改めて驚いた。

 己が仕事の忙しさにかまけていた所為もあるが、頼久がその大変さを微塵も表情や態度に滲ませたことがなかったので、

 今まで全く気付かなかったのだ。

 

 これは見過ごしてはならぬ状況だ。

 

 フォークで差したマカロニを口に運びながら、泰明は僅かに柳眉を顰める。

 ふと思い付いて時計を見る。

 13時15分。

 この分ならおそらく、今日のところは泰明への緊急呼び出しはないだろう。

 頼久が戻ってくるのは夕方。

 きっと疲れて帰って来る筈。

 ならば、今日これからの家事は自分がやろう。

 といっても、洗濯物の取り込みと風呂の準備、夕食の準備くらいしかないのだが。

 洗濯物を取り込むのは夕方でよい。

 風呂と夕食、どちらの準備を先にするか考え、稽古で汗に濡れて帰って来るだろう頼久を思い浮かべた泰明は、

風呂の準備を先にすることに決めた。

 食べ終えた食器を片付け、泰明は悠々と縁側から庭へと降りる。

 純和風の外観のこの家は、風呂場が独立した離れにある。

 風呂は薪を釜で燃やして沸かす昔ながらのものである。

 最近は燃やす薪をわざわざ買いに行かねばならないので不便ではあるが、泰明も頼久もこの風呂が気に入っていた。

 まずは風呂を掃除しようと、離れに向かって歩いていた泰明はふと、屋根の上に一匹の猫がいるのを見付けた。

 猫は暖かい陽射しが降り注ぐ場所でぬくぬくと丸まっている。

随分と気持ち良さそうだ。

泰明の視線に気付いたのか、丸まっていた猫が薄目を開けて、なあ、と挨拶をした。

「そこは心地良いか?」

 猫を見上げてそう訊ねると、なあ、と肯定する。

 

 にゃあ。

 

 お前も来いよ、と誘われて泰明は躊躇う。

 しかし、その場所は本当に暖かく、心地良さそうで…

 少しだけなら、という誘惑に負けて、泰明は建物のすぐ傍に生えている木に昇り、枝を器用に伝って、

猫のいる屋根の上へと上がった。

「邪魔をする」

 一言、声を掛けると、猫はなあ、と鳴いて再び丸まった。

 そこはぽかぽかと暖かく、本当に気持ちの良いところだった。

 

 まるで、頼久の傍にいるときのようだ。

 

 屋根の上で、柔らかい陽射しを浴びつつ、泰明は猫を真似てその身を丸めた。

 

 

 

「泰明殿?」

 

 夕方。

道場から戻ってきた頼久は、玄関先で泰明が家にいるときは必ずある筈の出迎えがないことに首を傾げる。

家の中に泰明の気配が感じられない。

仕事で急に呼び出されたのか。

 しかし、それならば何らかの形で泰明はそのことを頼久に伝える筈である。

 今日は一日中、急を知らせに泰明が道場へ顔を出すこともなかったし、食卓にメモも置いていない。

 第一、玄関には泰明が出掛けるときに履く靴が置いてあるままだ。

 ならば、泰明は家にいる筈だが……

 頼久は竹刀を持った袴姿のまま、やや急いた足取りで家に上がる。

 朝、出掛けるときに泰明がいた書庫を覗いてみるが、そこにも彼の姿はない。

 茶の間に来たところでふと、庭に出る縁側の石段の上に置かれた泰明用のサンダルがないことに気付く。

 頼久は庭に下り、少し歩いて、そこでやっと離れの近くにある屋根の上に泰明を見付けることができた。

 

 泰明は……猫のように丸まって眠っていた。

 傍に本物の猫も丸まっている。

茜色の陽光にその白い頬を染められながら、泰明はすやすやと幸せそうに寝入っている。

取り敢えず、無事な姿を目にすることが出来て、頼久はほっと安堵の息をつく。

ちょうどそのとき……

 

くちっ。

 

小さなくしゃみの音と共に泰明が目を覚ます。

「…頼久」

 今の状況を思い出すようにぼんやりと視線を彷徨わせて、頼久を見付ける。

 まだ、完全に目覚め切ってはいない様子でゆっくりと華奢な身体を起こした。

 その頃には、一緒に丸まっていた猫も目覚め、大きく欠伸をする。

 少しばかり、毛繕いをしてから、

 

 にゃあ。

 

 じゃあな、と泰明に挨拶して、悠々と屋根の向こうに消えていった。

「…もう、夕方なのか」

 やっと目を覚ましたらしき泰明が呟く。

「いつからそこにいたのですか?」

「…昼ぐらいだ」

 頼久は溜息をつく。

 幾ら暖かいとはいえ、そんなに長く外で眠っていれば、くしゃみも出る。

「もうすぐ陽も落ちます。早くそこから降りて下さい」

「分かった」

 頼久の溜息混じりの言葉に泰明は素直に頷く。

 

 次に泰明の取った行動に、頼久は驚いた。

 なんと、泰明はかなりの高さがある屋根の上から飛び降りたのである。

「泰明殿!!」

 頼久は竹刀を放り出し、すんでのところで泰明を抱きとめた。

「こんな高いところから飛び降りたら危ないではありませんか!」

 大きな声を出す頼久の腕の中で、泰明はきょとんとした顔をしている。

「私がいたから良かったようなものの…」

 更に言い募ろうとしていた頼久は、途中ではた、と気付く。

 泰明はこう見えても、運動神経が良い。

 自分が手を貸さずとも、このぐらいの高さなどものともせず、一人で上手く降りることが出来た筈だ。

「…すみません。余計なことでしたね」

 分かってはいるのだが、こうして傍で見ているとついつい手を差し伸べてしまう。

 反省する頼久に、泰明は彼のしっかりした肩に掴まりつつ、首を振る。

「気にせずとも良い。それに…もし、私が上手く降りられなくても、こうして頼久が受け止めてくれる。そう思った故、飛び降りた。

私の思っていた通りに頼久が受け止めてくれて嬉しい」

「……」

 どうして、このひとは何の作為もなくこんな言葉を口にすることができるのだろう。

 花が綻ぶような笑顔で無邪気な信頼を露にする泰明に頼久は思わず赤面する。

 次いで、汗に汚れた道着姿のまま、泰明を抱いていることに気付き、

「す、すみません!」

慌てて泰明を下ろそうとする。

「どうしたのだ?」

「いえ、汗で汚れておりますので……」

「頼久は汚れてなどいない。その袴姿も好きだ」

 凛々しくて、とても頼久らしい。

 首に腕を回してしがみ付いてくる泰明に頼久はまたもや言葉をなくしてしまう。

 細い身体を下ろそうとしていた動きも止まってしまった。

 すると、あ、と突然何かに気付いたように、泰明が小さな声を上げた。

「?どうしました?」

 泰明は先程の笑顔から一転、しゅんとした表情を見せる。

「…頼久が帰ってくるまでに、風呂の準備をしようと思っていたのに……」

 頼久は目を丸くする。

「泰明殿はそんなことをしなくてもいいのですよ。せっかくの休みなのですから」

「せっかくの休みだからこそ、いつも頼久に任せきりになっている家事の幾つかを一人でやろうと思っていたのだ…」

 剣道の師範としての仕事は忙しいことは忙しいが、泰明と違ってだいたい働く時間が決まっている頼久にとって、

日々の家事をこなすことは苦にならない。

 しかし、泰明は日々の家事を頼久に任せきりにしていることを気に病んでいたようだ。

 連日の深夜勤務後の休日である今日も、ゆっくり休むことはせずに、朝、頼久と同じ時間に起きて、家事を手伝ってくれた。

 泰明の優しい気遣いに胸を暖められながら、頼久は額を合わせるようにして泰明の澄んだ瞳を覗き込む。

「そのようなことは気にしなくても良いのです」

「しかし…それでは一緒に暮らしている意味がない…」

「そんなことはありません。貴方が私の傍にある……そのこと自体が私にとって充分な意味があるのです。

貴方は私の幸せそのものですから」

「……」

「泰明殿は違いますか?」

「…違わない」

 泰明はやっと滑らかな頬を緩める。

 額を合わせ、瞳を見合わせたまま、二人は微笑み合った。

 

 自分もなかなか言うようになったものだ。

 泰明のやや乱れている翡翠色の髪を撫で整えながら、頼久は心密かに思う。

 

 泰明が自分の幸せそのものだと。

 

 以前の自分なら、恥ずかしくてとても言えた言葉ではないだろう。

 しかし、泰明に曖昧な物言いは通用しない。

 彼と付き合っていくには、はっきり気持ちを伝えることが肝要なのである。

 

「それでは、これから一緒に風呂と夕食の準備を致しましょう」

「分かった」

 素直な言葉に微笑み、頼久は歩き出した。

「頼久?」

 自分を抱き上げたまま、風呂場のある離れに向かう頼久に泰明は怪訝そうに声を掛ける。

 頼久はにっこりと笑う。

「行く場所が同じならばこのままで良いでしょう」

「疲れるのではないか?」

「いいえ」

 寧ろ、腕の中にある美しい容姿(かたち)をした幸せが、今日の疲れを癒してくれるような気がするほどだ。

 泰明は納得できていないのか、頼久の首に腕を回しつつも、華奢な首を傾げている。

 ややしてふと、思い付いたように、瞳を輝かせ、頼久を見上げた。

「そうだ、頼久。今宵は一緒に風呂に入ろう」

 

「えっ?」

 

 思いもよらない泰明の爆弾発言に頼久は思わず凍りつく。

そんな彼に泰明は何の含みもない澄んだ笑顔を向ける。

「今日、風呂の準備が出来なかった詫びの代わりに今宵は私が頼久の背中を流す」

 

 泰明と一緒に…風呂……

泰明が頼久の背中を流す……

ということはもちろん、泰明は裸になる訳で………

 

「いっ、いえっ!お言葉は有り難いのですが、そのお気持ちだけで……」

とてもではないが、泰明の裸身を見て、平静でいられる自信がない。

「………迷惑なのか?」

 再びしゅんとする泰明の姿に頼久は慌てる。

「いいえっ!!そのお言葉は嬉しいですっ!」

「そうか。では、迷惑ではないのだな」

 泰明はすっかりやる気になっている。

「…………」

泰明の身体を大切に腕の中に抱え上げたまま、追い詰められたような心持で頼久は言葉をなくす。

徐々に頭に血が昇っていく。

 

自分もなかなか言うようにはなったが、やはり泰明には敵わない。

しかも、彼の言動は無意識であるだけに最強だ。

 

この窮地をどのように脱しようかと、動揺のあまり上手く働かない頭を叱咤しつつ、考えを巡らせる頼久であった。

 


「緑陰」初のキリリク小説です。
晴 嘉羅様、100hit御申告+リクエスト、誠に有難う御座いました♪
さて、リクエスト内容は…「ともやすかよりやすで甘々」とのことでしたが……
ともやすは何やら今後も自発的に書きそうな気がしたので(笑)、今回はよりやすにしてみました。
奇しくも連続のよりやすアップです。
またも、現代編。やっすんはやっぱりお医者様で、頼久は何やら剣道の道場を開いてるらしいです。
何故そうなのかは不明です。何となくそうかなって……(汗)
今回のお話のキーワードは題名にもなってる「陽だまり」、「猫」、「お姫様抱っこ」でした♪
この後、果たして頼久はやっすんと一緒にお風呂に入ったんでしょうかね?
やっすんのヌードに悩殺され、のぼせて倒れて、結局やっすんに介抱され、
ひたすら恐縮する頼久という歪んだ構図しか思い浮かばないんですが……(笑)
しかし……!うわぁぁん!!(号泣)
これの一体何処が「甘々」なのですか!!?
リクエストに応え切れてないじゃないですか!!
どうやらこれが、葉柳の精一杯のようです……
初のキリリクだというのにリクエスト下さった晴様には誠に申し訳なく……(さめざめ)
晴様、とんだ駄作ぶりですが、これでも頑張って書きましたので、宜しければお持ち帰り下さいませ。
………返品可です(汗)。

とにもかくにも、100hit有難う御座いました!
そして、ここまで読んで頂いた方々にも感謝の言葉を捧げさせて頂きますです!!


戻る