銀の雨
ふと、頬を打った雫に、頼久は顔を上げた。
「雨か…」
呟いて顔を上げ、僅かに凛々しい眉を顰める。
青々と葉を繁らせる木々の合間から見える空は明るい。
その空から、次々と陽に煌きながら糸のような雨が降り注いでくるのだ。
天気雨である。
このような雨はすぐに止むことが多いが、頼久は一旦稽古の手を休める。
手にした竹刀を、脇の木の幹に立て掛け、泰明の姿を探す。
先程まで、一人稽古に励む頼久の様子を、傍らで飽くことなく見ていた泰明だったが、何時の間にかその姿が消えている。
頼久は内心慌てた。
泰明のことだ、都会から離れた山の中とはいえ、迷うことなどないであろう。
また、危険な目に遭うこともない筈だ。
しかし、意外に無頓着な彼が、木蔭で雨宿りもせずに、雨の中を歩いている可能性は充分にあり得る。
そのことが原因で、万が一にでも彼に風邪を引かせるようなことがあってはならない。
頼久は急いで、杜の中へ足を踏み入れた。
「泰明殿?」
名を呼びながら、木々の合間に細い人影を探す。
銀の紗に遮られて、視界が利かないような気がする。
頼久は目を凝らして前方を見据えながら、歩を進めた。
やがて、木々が途切れ、小さな沼が見えてくる。
探していた麗しい後姿も。
小さな安堵の息を吐いて声を掛ける。
「泰明殿」
応えて、泰明の白い美貌が振り向いた。
ゆったりとした白いシャツの背で、緩く編まれた翡翠色の髪が揺れる。
頼久を認めた色違いの瞳が仄かに微笑んだ。
沼の縁に佇むその姿に、頼久は思わず息を呑んで見惚れる。
銀に煌く雨糸が、沼の上に小さな虹を掛けている。
幻想的な情景に泰明はすんなりと馴染み、仄かに発光しているが如くに見えた。
言葉を無くすほどに美しい。
彼もまた、夢幻の存在であるかのように。
「頼久」
花弁を象る唇が、低くも澄んだ声音を紡ぐ。
同時に、ぱしゃんと小さな水音がして、頼久は覚めた。
魚の尾鰭が水面を揺らして、沼の中に消えていく。
ただの魚にしては随分と大きい。
頼久の視線の先を追った泰明が応える。
「この沼の主だ」
「主…神霊ですか」
「そうだな。長く生きるうちに、異界との行き来が可能になったのだと言う」
「その主と、話をされていたのですか?」
頼久の問いに泰明は無邪気に頷く。
胸の内が不穏にざわめく。
それを何とか鎮めようと苦心しつつ、頼久は問いを重ねる。
「どのような話をされていたのか、伺っても宜しいでしょうか?」
すると、泰明がふと、唇だけで淡く微笑んだ。
僅かに苦さの混じった笑み。
しかし、美しい。
「この世界は、生きにくかろう…と言われた」
「え?」
泰明の言葉に、鎮めようとした胸が、再び騒ぎ出す。
「自分と共に、異界へ行かないかと。私にはむしろ、異界の方が生きやすかろう、と言われた」
気付いたときには、頼久は腕を伸ばして、華奢な身体を引き寄せていた。
「頼久?」
泰明が驚いたような声を上げるが、構わずに白く細い項に顔を埋める。
甘い肌の香りに包まれ、安堵する。
同時に、儚いほど淡い体温に、焦燥を煽られる。
微かに水の撥ねる音が、耳を打つ。
煌く水面の内側で揺らめく鱗が見える。
泰明を背中から抱き締めながら、頼久はそれを見据えた。
泰明は渡さない。
誰が相手であろうとも。
相手が神と呼ばれる存在であろうとも、その強い想いは揺るがない。
竹刀を置いてきたことが悔やまれる。
ここが京ではないことも。
この手に刀があれば。
そこまで考えるともなく、考えを巡らせて、己の物騒な思考に気付き、密かに苦笑する。
彼をこの手に留めておけるのなら、神を弑することも厭わない。
そのことに一片の罪悪感すら持っていないのだ。
しかし。
この沼の主が言ったというように、この世が、本当に泰明にとって生きにくい世界であるのなら。
確かにこのひとは汚泥に塗れた世に在るには、清らか過ぎる。
己は、自身の妄執めいた執着の為に、彼を望まぬ世界に、縛り付けているのだ。
そのことにだけは、胸が痛んだ。
それでも尚、泰明を手放したくないと強く思う己の罪深さを思う。
だが、放したくない。
放せない。
罪深くとも構わない。
不意に、細い指先が頼久の目の上に掛かる髪を掻き上げるように触れた。
我に返った頼久の目に、肩越しに振り向いた泰明の顔が映る。
澄み切った瞳で、何処か気遣わしげに覗き込んでくる。
「どうした?」
「いえ…」
一瞬言葉を淀ませ、頼久は言葉を継ぐ。
「小雨とはいえ、何時までも雨に打たれていては、お風邪を召してしまいます」
我ながら、下手な言い訳だと思いながら、注ぐ銀の雨から庇うように、抱きしめる腕に僅かに力を篭める。
壊れそうに細いのに、しっかりと腕に馴染む身体が、その存在がひたすらに愛おしい。
泰明は黙したまま、ふっと、視線を動かし、光を湛えた水色の空を見上げ、虹の掛かる沼の水面を見る。
ぱしゃんと、水が撥ねる。
そうして、再び頼久に振り向き、清らかに微笑んだ。
「私は何処にも行かない。頼久の傍にいる」
そう言って、主には断ったのだ。
囁くような声音で、しかし、はっきりと言葉を紡ぐ。
泰明は頼久の内心の焦燥をしっかりと読み取っていたのだ。
彼の言葉と微笑に、頼久は何処までも罪深い己が、僅かに清められるのを感じた。
翠の髪に留まる幾つもの銀の雨粒が、艶やかな髪を飾る宝玉のようだ。
銀の雨と七色の虹を随え、微笑む泰明の姿は、儚いまでに美しい。
せめて、命の限り、このひとに寄り添い、守り続けよう。
このひとの美しさを。
清らかさを。
何時の間にか、銀の雨は止んでいた。
名残の虹も後を追うように消えていく。
夢幻の情景が失われていく。
それでも尚、頼久は泰明の華奢な肢体を抱き締め続けていた。