幻夢ノ蝶 7

 

 紺色の夜空が徐々に白んでくる。

 夜明けが近い。

 離れに戻ってからも、泰明は寝(やす)むことはせず、縁側にずっと佇んでいた。

 見詰める庭の景色を成り立たせる輪郭が、徐々に浮かび上がってくる。

 が、その手前で、何処からか俄かに湧き上がった靄に、それらの輪郭は掻き消されてしまう。

 太陽が光の翼を拡げ、橙に染められる東の空も覆い隠され、辺りは白の世界に変貌する。

 不意に、泰明が動き出す。

「ッ、泰明!」

 着物の裾を翻して、縁側から庭へと下りたところで、慌てたように傍らの高木から、雷牙が飛び下りてきた。

 力強い翼の羽ばたきに、周囲の靄が一瞬吹き払われる。

「大丈夫だ」

 何か言いたげな様子の雷牙に、泰明は素っ気無い一言のみ口にして、その脇を通り過ぎようとする。

 と、泰明の行く手を遮るように、雷牙が目の前に立ち塞がった。

「何だ?」

 泰明は訝しげに雷牙を見上げる。

 が、無言のままではあるものの、不満をいっぱいに浮かべたその表情を見て、理解する。

 泰明は微かに唇を綻ばせた。

「危なくなれば、必ず呼ぶ」

「…必ずじゃぞ」

 花が開くような泰明の微笑みに僅かに頬を赤らめ、それを隠すように更に不貞腐れたような表情を装いながら、

雷牙は念を押し、塞いでいた道を明けた。

 

 身体ごと包み込むような靄を恐れることなく、泰明は歩を進める。

やがて、立ち止まった泰明の目の前で、滲むように背高い人影の輪郭が形作られた。

 暗赤色の髪が僅かに揺れ、その顔がゆっくりと向けられる。

 泰明を認めた藍色の瞳が柔らかに和んだ。

「…泰明」

 呼び掛けに軽く頷き、泰明は静寂を纏う青年の傍らで立ち止まった。

 ふと、軽く柳眉を寄せ、呟く。

「これでは、見えないな」

「何が?」

「このように霧が深くては、庭の池も萩も良く見えない」

「…ああ、確かに……」

 泰明の応えに、季史は静かに、だが、愉しげな笑みを零す。

 あくまでも事実を言っただけのつもりであった泰明は、怪訝そうに首を傾げる。

「何が可笑しい?」

「…いや、貴方を笑ったわけではないのだ。確かに美しい庭の景色を見られないのは残念だが…」

 季史はじっと泰明を見詰める。

「この靄の中でも、貴方の姿は、はっきりと見える。貴方の姿を見ることが出来れば…

貴方に逢うことが出来ればそれだけで…きっと私は充分なのだ……」

季史の藍色の瞳は、彼の纏う雰囲気と同じ静寂で満たされている。

が、時折、揺らめくように立ち昇る陰影があった。

 泰明もまた、その瞳を見詰め返す。

「私にもお前の姿がはっきりと見える。通常はこれだけ濃い霧ならば、庭の景色同様、互いの姿も覆い隠される筈だと言うのにな」

 泰明の澄み切った、稀有な宝玉のような瞳に見据えられ、季史の表情が僅かに動く。

「季史…」

 呼び掛けた泰明は、その眼差しと同じく、真っ直ぐに問うた。

「お前は何故、ここにいる?」

「…私…?…私は……」

 季史の整った顔に戸惑いの表情が浮かぶ。

 次いで、混乱に見舞われたように、片手で己の額を抑えた。

「お前は本来なら、ここにいるべきではない筈」

 泰明が断言すると、季史は額を抑えたまま俯き、苦しげに呻いた。

「私は……私…ハ……」

 呟く声音が不意に低くなる。

「…ッ!」

 次の瞬間、恐ろしい速さで季史の腕が伸び、泰明の華奢な手首を捉えた。

「私ハ…戻ッテ来タ……アノ者達ニ…報イル為ニ…」

 呟くように言葉を紡ぐ季史の暗赤色の髪色が、淡く変色していく。

 同時に、辺りの霧が瘴気となってふたりを包んだ。

いや、瘴気の源は季史だ。

彼に触れられた場所からも肌に染み入るように、瘴気が体内を侵そうとする。

だが、泰明は一瞬顔を顰めただけで、季史の手を振り解こうとはしなかった。

雷牙を呼ぶこともしなかった。

「あの者たちとは?」

 凛とした声で問う。

「コノ屋敷ニ住マウ一族ノ者…私カラ全テヲ奪ッタ……」

 徐々に嗄れていく声音が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 白く変色した髪の合間から、紅く光る目が覗く。

「オ前ノ力ヲ寄越セ…更ニ増シタ力デモッテ…コノ怨ミヲ晴ラシテクレル…」

「それを許す訳には行かない」

 断ち切るように言うと、泰明は瞑目し、体内の気を高める。

「…ッ!」

 突如放たれた泰明の清らかな気に、季史が弾かれたように、掴んでいた手を離す。

 再び瞳を開いた泰明は、季史を真っ直ぐに見据えた。

「お前が抱くのは怨みだけか?」

「…何…?」

「私はお前が変ずる前に口にした言葉に偽りを感じなかった。お前を縛るものは本当に怨みだけか?考えろ」

「何ヲ…」

 畳み掛けるような言葉に、季史は再び混乱したように頭を抱える。

 苦しげな呻き声が泰明の耳に触れた。

 泰明がすっと、手を伸ばすと、今度は避けるように後ずさる。

 共に、泰明の身体を押し包もうとしていた白い霧も後退する。

 後退した霧が、季史の姿を覆い隠していく。

「季史!」

 泰明が呼び掛けるが、応えはない。

眼前で凝った霧が散った後には、靄は晴れ、青い空が広がっていた。

「泰明!」

 駆け寄ってくる雷牙に、泰明は振り向いた。

 瞬間、雷牙が気遣わしげに凛々しい眉根を寄せる。

「逃げられた」

 蒼白な顔で一言告げた泰明の細い身体を、雷牙は背中から包むように抱き締める。

「呼べと言っただろう!」

 叱り付けるような雷牙の言葉に臆することなく、泰明は応える。

「危険はなかった。ただ、少し瘴気に中てられただけだ。すぐに元に戻る。問題ない」

「お主という奴は…」

 幾ら言い聞かせても、自身に対する無頓着振りが、一向に改まらない泰明に、雷牙は溜息を吐くしかない。

 こちらは、時に心が締め上げられるほどに、泰明の身を案じているというのに。

 そんな雷牙の憂慮に構うことなく、泰明は言葉を継ぐ。

「だが、大体は分かった」

「怪異の原因か?」

 雷牙の問いに頷きを返し、次いで、華奢な首を傾げる。

「だが、理由が分からない」

 呟きながら、澄んだ瞳で、澄んだ空を見上げた。

 



前へ  戻る  次へ