幻夢ノ蝶 5
夜が更けてから、泰明は離れから本館へと移動する。
日暮時から発生した靄は晴れることなく、辺りを満たしていた。
渡り廊下も白い闇に包まれ、一寸先も分からないほどであったが、泰明は迷わず廊下を渡っていく。
羽織った飛鳥の着物を優雅に翻しながら歩む泰明の背後を守るように、雷牙が付き随う。
不意に、泰明がぴたりと立ち止まった。
「泰明?」
雷牙の呼び掛けには応えず、耳を澄ますように、目前の空間を凝視する。
同じように感覚を研ぎ澄ました雷牙にも、本館から漂ってくる異様な気配が伝わってきた。
「行くぞ」
静かな声音で一言発すると、泰明は飛ぶように走り出した。
羽織った着物の長い袖と裾が羽のように広がり、はためく。
遅れず、雷牙も大きく翼を広げ、低空飛行で後に続いた。
やがて、靄の狭間から本館の影が現れたとき、悲鳴が聞こえた。
この屋敷の主人のものだ。
視界を閉ざされていても、泰明は迷うことなく、玄関へと向かう。
と、行く手を塞ぐように、漂う靄が意志を持ったように凝り、襲い掛かって来た。
うねる白蛇のようなそれと共に、凄まじい冷気が押し寄せてくる。
泰明は微かに柳眉を顰めたが、一瞬も躊躇うことなく、交差させた手を眼前に構え、靄の中に飛び込んでいく。
泰明の発する霊気に、絡み付こうとする靄が僅かに退く。
「泰明!」
すかさず、雷牙が泰明の前方へと回り、大きく羽を打ち振った。
巻き起こる呪力の篭った風が、一気に不穏な靄を吹き払う。
泰明は意表を突かれたように、大きな瞳を瞠って、綺麗になった周囲を見る。
「お主の相手は、このような雑魚共ではないだろう。無駄な霊力を使うな」
雷牙の言葉に、泰明は小さく笑った。
再び雷牙が起こした風によって、玄関の扉が開かれる。
泰明は臆することなく、中に飛び込んだ。
主人の悲鳴は断続的に聞こえてくる。
しかし、館自体は閑散として、人気がない。
別棟に寝起きしている使用人たちが、やって来る気配もない。
皆、館に起こる怪異に怯えているのだろう。
泰明は玄関ホール正面にある螺旋階段を駆け上がり、二階にある主人の居室へと向かう。
部屋の前に辿り着くと、泰明は扉の取っ手に手を掛ける。
が、予想していた通り、取っ手は動かない。
次いで、泰明が扉の前で手を翳すと、かちゃりと小さな音がして、勢い良く扉が開かれた。
部屋に飛び込む手前で、突如目に飛び込んできた光景に、泰明は一瞬立ち止まる。
ねっとりとした闇に覆われた室内。
そして、無数の紅い手。
血濡れの手が床全体を埋め尽くし、四方八方に腕を伸ばして、蠢いているのだ。
「た、助けてくれ!!」
奥の壁際で幾つもの腕に捕らわれ、主が悲鳴を上げている。
「ようやく来たか」
落ち着き払った声音に目を向ければ、手前のソファの傍らにアクラムがいた。
彼の身体もまた、床から伸びる腕によって雁字搦めに捕らわれていたが、
ひたすら悲鳴を上げ続ける主と違って、動揺の欠片もないように見えた。
その様が珍しくて、泰明は思わず問うていた。
「恐ろしくはないのか?」
アクラムは整った唇に、見慣れた嘲笑を刻んだ。
「ああ、恐ろしいとも。だから、こうして身動きも取れずにいる。貴方の助けを心待ちにしていたのだぞ」
言葉とは裏腹に、声音は冷えて、いささかの恐怖も、そして、懇願も伝わっては来なかった。
「…ッあ、安倍殿!!は、早く私を…ッ!!」
主に必死の声で助けを乞われ、泰明はアクラムに対する怪訝な思いをひとまず脇に置く。
「つれないな。私は後回しか?」
「その様子なら、あと少しの時間は耐えられるだろう」
泰明の行動を察したアクラムの言葉に、素っ気無く応え、床を埋め尽くす腕を飛び越えるようにして、主の元へ駆け寄る。
「あッ、安倍殿ッッ!!」
「今、穢れを祓う。私の後ろに…ッ?!」
言いながら、印を結ぼうとした手を、主に掴まれる。
恐怖に混乱した彼は、手だけではなく、泰明の腰の辺りにも死に物狂いでしがみ付く。
これでは、印を結ぶどころか、身動きさえ取れない。
「離してくれ」
眉根を寄せてやや鋭い声音で言うが、主は首を振り、ますます強くしがみ付く。
泰明の発する気に慄いて、後退していた紅い手も、泰明へ向かって伸び始める。
「くっ…!」
紅い手にべっとりと触れられた箇所から、瘴気が体内に入り込んできて、泰明は顔を顰める。
呪が使えないとなると、別の方法で穢れを祓うしかない。
それは泰明が生来持つ霊力のひとつである浄化の力を、解放するというものだ。
しかし、その方法は泰明の体力を著しく消耗させる。
出来得るなら、現段階で、その手を用いるのは避けたい。
と、その様子を見ていたアクラムが、無造作に己の身体に絡みつく腕を引きちぎるようにして振り払った。
思わず目を瞠る泰明の元へと真っ直ぐに歩み寄り、父親を冷たい目で見下ろす。
「父上」
無表情に呼び掛けると、すっと手を伸ばし、躊躇いなく、その急所に当て身を入れる。
そうして、崩折れた父親の身体を泰明から引き剥がした。
身動きが取れるようになった泰明は、すかさず羽織っていた着物をばさりと大きく広げる。
同時に印を結ぶと、着物に宿る鳥が一斉に飛び立ち、床を埋め尽くす手へと殺到した。
白い羽に覆われた紅い手が徐々に消えていく。
が…
「多いか…」
泰明が呟く。
彼の様子をアクラムが、変わらず冷えた、同時に不思議な熱の篭った眼差しで見詰めている。
「泰明!!」
外の邪気をあらかた祓い尽した雷牙が駆け付けてくる。
その姿を目の端に捉えつつ、泰明は傍らの壁へと腕を伸ばした。
そこには大きな絵が掛けてある。
描かれているのは大きく翼を広げた勇猛な鷹だ。
その鷹に指先を触れ、空いている手で印を結ぶ。
「…飛空!」
凛とした泰明の声が空気を震わせると同時に、鷹が飛び立った。
ほう、とアクラムが感嘆したような声を上げる。
飛び出した鷹は矢のような勢いで、部屋中を低空飛行する。
その羽に打たれた手が次々に霧散していく。
畳み掛けるように、泰明が低い声音で呪を紡ぎ出した。
雷牙もまた、泰明の唱える呪に己の呪を重ねる。
呪の詠唱が終わった瞬間、飛び回る鷹が眩い光を放った。
あまりの眩しさにアクラムは思わず目を瞑る。
光は部屋中を白く染め上げ、凝る闇を祓っていく。
永遠のような一瞬。
光が消え去り、アクラムが閉じていた眼を開くと、床を埋め尽くしていた手は消え去り、部屋はすっかり元通りとなっていた。