幻夢ノ蝶 11
「季史」
静かだが凛と澄んだ声音で、泰明が呼び掛けた。
空を切り裂いて耳を打つ声に、光の網に縛められ、人ならぬ唸り声を上げて抗っていた怨霊が、不意におとなしくなる。
「季史」
もう一度泰明が呼び掛けると、灰白色の髪先を僅かに揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
露わになった金色の目を真っ直ぐに見詰め、泰明は問う。
「私が分かるか?」
「…泰……明…?」
掠れた微かな声音を聞き取った泰明は頷き、不意に彼の呪縛を解いた。
「!!泰ッ…!」
驚いた雷牙が振り返り、駆け寄ろうとするのを、アクラムが制する。
「何じゃ、お主ッ!」
「これは彼の領分だろう。邪魔をしない方が良いと思うがな」
尤もな言葉に、雷牙はぐっと唇を引き結び、留まるしかない。
代わりに小さく悪態を吐く。
「お主に言われると、腹が立つな」
アクラムが小さく笑う。
そうして、横目で扉近くに居る彼の父を見遣る。
彼はその場でうつ伏せに倒れていた。
「一時的に気を消耗しただけじゃ。生きておる」
「それは良かった」
アクラムは再び小さく笑った。
「己の妄執に惑わされるな。しっかりと目を開いて、己とその周囲の現実を見ろ」
泰明の言葉に導かれて、季史がゆっくりと視線を動かす。
アクラムを認めたとき、その瞳が一瞬見開かれるが、すぐに我に返ったように落ち着いた。
細くなっていた瞳孔がゆっくりと開いて、逆立っていた髪が元に戻る。
それに伴って、纏う色彩も元通りになった。
髪は暗赤色に。
瞳は藍色に。
「ああ…」
季史はゆっくりと己の両目を掌で覆った。
「思い出した…全て……私は…」
安堵と僅かな悲哀を滲ませた声音で呟く。
そうして、覆っていた掌を離すと、間近に立つ泰明を見た。
「私は…この世の者ではないのだな……」
季史の言葉に泰明は頷く。
それに、微かに唇の端を吊り上げて微笑み、季史は背後のアクラムを見る。
アクラムは相変わらず冷えた、しかし、静かな眼差しで見返した。
「こうして見れば…違うな。似てはいるが……」
「私に似た一族の誰かが、そちらに迷惑をお掛けしたか?」
「いや…」
皮肉めいたアクラムの言葉に、季史は僅かに苦笑して、首を振る。
「正気に返ってみれば、恨みも悲しみも…愛しささえも……遠い記憶だ……」
穏やかに言葉を紡ぎながらも、その藍色の瞳には拭いきれない翳りがある。
泰明は黙って、その瞳を見詰めた。
その真っ直ぐな視線に気付いた季史が、微笑む。
切なげな笑み。
「還らないといけないな…あるべき場所へ……」
泰明は頷き、羽織っている着物の襟を持ち、ふわりと裾を拡げた。
「その為に、最後の清めを行う」
季史が頷きを返すと、小さく呪を唱える。
「…浄!」
瞬間。
ふわりと微かな香気が漂った。
不意に生まれた風を孕んで、泰明の纏う着物が更に拡がった。
一つに纏めていた長い髪も解け、翡翠色の絹糸が芳しく拡がる。
泰明を除く三人が目を瞠る間もなく、着物に染め抜かれた桜の花弁が浮き上がる。
続いて咲き零れる花が、その花を幾つも付けている枝が、それを支える幹が瞬く間に、形を成して部屋いっぱいに広がった。
薄紅色に霞む空間で、力弱く蠢いていた紅い手が一つ残らず消える。
蟠っていた邪気の名残も一気に吹き払われていった。
「ああ…」
自身も清められていくのを感じながら、季史は空を振り仰ぎ、浄化の桜の美しさに見惚れる。
そうして、美しい桜を従えて佇む、更に麗しい花精のような泰明の姿に目を奪われた。
蕾の綻ぶような淡い笑みが、なんと清らかで優しいことか…
ふと、気付く。
「…ああ……やはり、貴方だ……」
泰明を見詰める季史の微笑みが満ち足りたものに変わる。
「恨みが消えた後も、愛しさは……」
このような形でも再び廻り遭うことが出来て良かった。
視界を埋め尽くす桜吹雪の中、泰明が僅かに華奢な首を傾げる。
季史がふと漏らした言葉の意味を測りかねているらしい。
だが、それで良い。
季史はそっと笑みを深くする。
「次はきっと……」
先の言葉は形を成すことはなかった。
完全に清められた季史の身体も、その輪郭を光に変えて解けていく。
と、解け切った光が一際大きな輝きを放ち、四方へと散った。
蝶だ。
桜の幻に舞う夢の蝶。
それらは空間をいっぱいに埋め尽くし、虹色に輝きながら、高みを目指す。
その先で溶けるように消えていく。
「…あっ…」
己を取り巻きながら上昇して行く、無数の蝶の行方を追っていた泰明が小さな声を上げる。
「どうした?何かあったか?」
アクラムが振り向き、雷牙が問う。
そのときには、光の蝶は去り、部屋を埋め尽くしていた桜も消えていた。
元通りになった部屋の中央に、泰明は空を見上げて佇んでいる。
「いや、何もない。大丈夫だ」
応えながら、乱れて頬に散った髪を細い指で払う。
「……」
途中、その指で己の唇にそっと触れた。