幻夢ノ蝶 1
しゃん。
しゃらん。
天井から紅い組紐で吊るされた鈴が鳴った。
応じて、部屋の中央に座していた人物が、閉じていた眼を開く。
ふわりと翡翠色の長い睫が揺れ、象牙色の薄い瞼の内から、翡翠と橙の色違いの瞳が現れた。
佳人である。
澄んだ大きな瞳のあどけなさと、繊細で柔らかな線を描く顔立ちは、少女を思わせた。
しかし、瞳に宿る光の強さと身に纏う凛とした空気が、それを否定する。
何処か浮世離れした精霊のような雰囲気を漂わせる青年であった。
「来客か」
低いが、不思議と澄んだ声音で呟き、青年は流れるような動きで立ち上がる。
細い首の後ろで結わえられた状態で、腰まで届くほど長く、真っ直ぐな翡翠色の髪がさらりと背で揺れた。
鮮やかな色模様の着物の裾をひらりと翻して、歩き出す。
青年は一風変わった格好をしていた。
ほっそりとした体躯と長い四肢を引き立たせる黒いタートルネックのカットソーと細身のジーンズ。
その上に、華やかな色目の振袖を無造作に羽織っている。
歩みに連れて、着物の長い袖と裾が閃く様は、優雅な蝶の羽ばたきに似て、青年の精霊めいた雰囲気に良く合った。
青年が歩き出すと、待ち構えていたように、襖が次々とひとりでに開く。
幾つもある部屋はいずれも広く、がらんとしていた。
人の気配もない。
青年はそれらの部屋を通り過ぎ、奥の間から庭に面した廊下へと出る。
開かれた硝子戸の向こうを一瞥し、長い廊下を客間へと向かう。
「お待たせした」
ちょうど角部屋に当たる客間の障子戸がすらりと開くと同時に、青年は部屋の奥に向かって声を掛けた。
その声に応じて、窓際に佇んでいた人物が振り返る。
こちらも秀麗な容貌の青年だった。
窓から差し込む陽光に煌く金髪を無造作に結い、すらりとした長身に濃いグレーのスーツを纏っている。
上着の内側に纏う紅いシャツが青年の肌の白さを引き立てている。
家主である青年の僅かに桜色を帯びた艶めいた白とは違う。
氷のように冷たい、他を拒絶する白さだ。
同じく氷のような青い瞳が、部屋へと入ってきた青年を認めて、僅かに見開かれる。
次いで、薄く形の良い唇が僅かに笑みの形を刻んだ。
「貴方が巷で噂の陰陽師、安倍泰明殿か?」
その問いに、精霊のような青年は、表情を動かすことなく、淡々と答えた。
「噂などは知らない。しかし、いかにも私が安倍泰明だ」
客人である青年はアクラムと名乗った。
「しかし、驚いた。霊力が高く、数ある怪異を鎮めたという陰陽師がこのように若いとはな」
椅子を勧められ、腰を掛けたアクラムは、テーブルに肘を突いて指を組みながら、愉快そうに笑う。
「何より美しい。このような方だと予め知っていれば、父も代理を立てずに、喜んで自らやって来た事だろうに」
その笑み交じりの口調に含まれる嘲りの響きに構うことなく、正面に座した泰明は口を開く。
「依頼主はお前の父か?」
「その通りだ」
「それはおかしい。この邸は当事者しか足を踏み入れることは出来ない。そのように結界が施されている」
「ほう、それは大したものだ」
アクラムはわざとらしく目を瞠り、テーブルの上に置かれた紅茶のカップに手を伸ばした。
カップの縁に触れる手前で、その唇が笑みを刻む。
「確かに私自身も害を被っていない訳でもない。だが、私は元々己に降り掛かる火の粉は己で払う主義でな」
そう言って、ゆっくりと一口紅茶を含むアクラムを、泰明はじっと見詰める。
考えを巡らせるように瞬きを繰り返し、口を開いた。
「では、何故そうしない?」
「私はともかく、父がすっかり怯えきってしまってな。何としても、貴方に怪異を鎮めて頂けと命じられたのだ。
仮にも一家の主、他ならぬ父の命令だ。聞かない訳には行かないだろう。それが不本意なものであってもな…良い茶ですな」
さらりと茶の味を褒めて、顔を上げる。
「怪異を恐れながら、同時にそれを鎮め、己を救う筈の貴方をも恐れているのだ、父は。
恐れるのなら、どちらかにすればいいものを。そうは思われないか?」
「当たり前の人というものは、己とは違う力を持つ者を厭い、恐れるものだ。無理もない」
皮肉気なアクラムの問い掛けに、泰明は淡々と答える。
「その程度で済ませられるとは、お優しいことだ…」
ますます皮肉めいた色を強めるアクラムの言葉。
しかし、泰明は構わずに、この対面における最も重要な問いを口にした。
「それで、どうするのだ。依頼をするのか、しないのか?」
「勿論、させて頂く。父よりそう命じられているのでな。それよりも、貴方はこの依頼を受けられるのか?」
「無論だ。元より、この邸にお前が入ることが出来た時点で、依頼を受けることは決まっていた」
アクラムが小さく笑う。
「対面の前に、予め、依頼主を篩いに掛ける訳か。まあ良い。私も貴方に興味がある。そのお手並みを拝見させて頂こう…」
話は決まった。
ふと、アクラムがその青い瞳から笑みの色を消して、泰明を見詰める。
「囚われの蝶…か」
「…ああ」
呟くような言葉の意味を図りかね、泰明は首を傾げ掛けたが、間もなくその見当を付けた。
頷いて、己が羽織る着物の袖を取り、その柄を見下ろす。
銀糸金糸を織り込んだ艶やかな濃紺の空に乱舞する蝶。
「虫籠の居心地はどのようなものだろうな…」
アクラムの低い声音の呟きが空に紛れる。
テーブルに置かれたランプの灯りを受けて、鮮やかな蝶がその羽を震わせたように見えた。