ガレキの楽園 1

 

 青い空を憶えている。

その吸い込まれそうな青さ。

青の中に浮かぶ眩しいほど白い雲。

そして、澄んだ空を映して輝く海。

 

幼いころ見た景色は今、幻のように遠い彼方にある。

幾ら手を伸ばしてももう届かない。

目前にあるのは灰色の空。

靄のように空と同化した雲。

くすんだ海だけ。

色を失って久しいこの世界は、徐々に滅びていくのだろう。

その中に埋没している自分も。

 

「風が冷えてきたな」

 灰色の浜辺。

気だるげに髪を掻き上げながら、前方を見やると、波打ち際に細い人影がある。

色のない世界に、鮮やかな色彩を纏って。

水平線の彼方から寄せてくる風に、翡翠色の髪が靡いている。

 

「泰明!」

風に消えてしまわぬよう、大きめの声で呼び掛けると、白い顔が振り向いた。

人形のように整った顔立ち。

「そろそろ戻ろう」

呼び掛けに応じて、近付いてくる稀有な左右色違いの瞳には笑みの気配がある。

命の輝きを宿す翡翠と黄玉。

 

灰色の痩せた絶望に満たされた心にただ一つ灯る光。

 

「綺麗なものを見付けた」

 そんな言葉と共に差し出された白い掌の中には、薄青い硝子の欠片。

 この浜辺に流れ着いた幾つもの硝子壜の破片である。

 波に洗われ、砂に研磨された破片は、丸みを帯びた欠片となり、僅かな陽光を弾いて煌く。

「それなら、ここにもあるよ」

 足元の砂の合間から似たような色の欠片を拾って、広げられた掌の上に載せてやると、澄んだ瞳が嬉しそうに綻んだ。

「有難う、友雅」

 そう言って、自分の拾った欠片と今貰った欠片、二つを交互に淡い光に翳す。

「そんなに綺麗かい?」

 この海と空を汚した人間の手によって作られたものが。

 

 光に透かした青い色を、目を細めて眺めながら、泰明は無邪気に頷く。

 言外に潜む意味に気付く筈もない。

「昔の海と空もこのように綺麗な色だったのだろうか」

「…いや、もっと青くて美しいよ」

「…そうか」

 透明な眼差しが再び海へと向けられる。

 彼方の海と空の境目へと。

そこには美しかった頃の名残さえない。

 

「泰明」

 そっと呼び掛ける。

「何か欲しいものはないかい?」

 視線が戻る。

「もう貰った」

 そう応えて、欠片を握った手を掲げてみせる。

「そうではなく…」

 言い掛けた言葉を呑み、怪訝そうにこちらを窺う泰明に、微笑みながら首を振ってみせる。

「戻ろう」

 代わりの言葉に、泰明は素直に頷く。

 

 君が好きなもの。

 綺麗だと思うもの。

 君が望むなら、どんなことをしても手に入れるのに。

 

 そう思う心に嘘はない。

 しかし、自分には彼が本当に望むものは、何一つ与えられないのではないだろうか。

 

 例えば、青い空と海。

 

 歩き出しながら、傍らの華奢な肩を抱き寄せ、細い身体が冷たい風に晒されぬよう、包み込む。

 風音の合間に、かちゃりと小さく、しかし重い音が零れる。

 泰明はその清らかな容姿には不似合いな武器を持っていた。

 黒く硬い拳銃。

それが、外からも見えるような形で、彼の細い腰に吊り下げられているのだった。

友雅も外に出してはいないが、コートの内側に銃を持っている。

それは彼らだけに限ったことではない。

この国では既に、一般民も身を守る武器を持たなければ、外も歩けないようになってから久しい。

泰明が技と見えるように、拳銃を下げているのは、街にはびこるならず者どもに、その儚い容姿のみで侮られぬためである。

しかし、友雅は泰明がそれを用いるのを一度も見たことがなかった。

もちろん、彼は一人で出掛けることもあったから、見ていないところで用いることはあったかもしれない。

だが、二人でいるときにその重い武器を取るのはもっぱら自分の役目だった。

それでいい、と思う。

黒い拳銃は、彼の細い手にはあまりにも不似合いで、哀れにさえ見えた。

だからせめて、自分の目の届く範囲でだけは、それを握らせたくない。

綺麗な手を汚して欲しくなかった。

 

全く、身勝手な願いだが。

 

唇に知らず自嘲の笑みが浮かぶ。

今日は珍しく、街のごろつきに絡まれることもなく、大通りに差し掛かった。

しかし、そこでいつもとは違う理由で身構えてしまう。

 通りには揃いの黒い服を纏った男たちが、信号近くで陣取り、過ぎる車、或いは人を呼び止めて、検閲めいたことを繰り返していたようだ。

「軍か…」

 どおりで、何事もなくここまで来ることができた訳だ。

 しかし、通りには日常的な危険に対するものとは別の緊張感が漲り、いつもより物騒な雰囲気に満ちている。

 最近徐々に力を得て、国政にも直接口出しするようになった軍部だが、その一部がこの国の治安の悪化を助長しているのも事実だ。

 どちらにしろ、軍は好きではない。

 かつて、そこに身を投じていた頃の苦い記憶が蘇る。

 彼らからそれとなく身を隠すように、目立たない通りの端を歩いた。

「軍手配の者が、この街にいるのかな」

 苦い気持ちを隠すように呟いた友雅は、腕の中で泰明がその瞳の色を僅かに硬くしたことに気付かなかった。

 

「飽きないね」

 淡い朝の陽光が差し込むベッドの上で、傍らの泰明に少々呆れたような声を掛ける。

「ああ、おはよう、友雅」

 その声音にめげもせず頷いた泰明は、ちょっと首を伸ばして友雅の唇に軽く口付けてから、素肌にシーツを纏い付かせたまま、元の体勢に戻った。

うつ伏せの状態で腕に細い顎を乗せ、目の前に置かれた透明で小さなプラスチックケースを眺める。

 ケースには今まで泰明が拾い、または友雅から貰った硝子の欠片が沢山篭められていた。

 しばし、その状態で眺めた後、泰明は細い腕を伸ばしてケースを取り、姿勢を変える。

 友雅に背を向けた状態で、ケースを持った腕を掲げ、時々揺らしながら青い欠片たちを光に透かす。

 その何処までも白く無垢な腕と無心な様子に、思わず笑みが零れる。

 そっぽを向く形となった(もちろん泰明は無意識だろうが)彼の華奢で滑らかな背中に口付けを返して、ベッドから降りる。

 手早くジーンズをはき、シャツを素肌に羽織ってから朝食の準備に取り掛かった。

 

「泰明」

 コーヒーとパン、サラダの軽い朝食の準備を整えて呼び掛けると、彼はまだベッドにいた。

 返事のないことを訝しんで近付いて見ると、泰明は剥き出しの腕に小さなプラスチックケースを持ったまま、再び寝入ってしまっている。

 その様子に笑みを含んだ小さな溜息を吐き、友雅は泰明を起こさぬよう、ベッドの端に腰掛ける。

 今日は特に出掛けなければいけない用事はない。

 朝食のコーヒーは冷めても温め直せばいいだけだ。

 緩んだ細い指の間からそっとケースを取り上げ、枕元に置いてから、身体が冷えぬよう剥き出しの肩までも覆うように、上掛けを掛け直してやる。

 静かな呼吸を繰り返しながら寝入る泰明の姿に見入る。

 その姿は無垢で美しかった。

 

 記憶の底にある青い空に浮かぶ白い雲のように。

 今はもう失われてしまった自然の美しさ。

 

 彼と知り合ったのは一年ほど前だ。

 

 彼は日暮れ掛けた海に一人、佇んでいた。

 その姿に視線が自然に吸い寄せられ、気付けば声を掛けていた。

 行く当てのない風情の彼を、一晩部屋に泊めたのが始まり。

 それが一週間、二週間となって、彼が躊躇いがちにこれからもここにいていいかと尋ねたとき、迷うことなく頷いた。

 彼の存在は煩わしいものではなく、むしろ自然なものだった。

 まるで、初めから共に暮らしていたように。

 知り合って一月も経たないうちに、肌を合わせたことも、ごく自然な行為だった。

 生臭い欲望とは無縁のある種静謐で神聖な気持ちで以って、友雅はいつも泰明を抱く。

 素直に受け入れる泰明もまた、自分と同じような気持ちであることが、触れ合う肌から伝わるような気がしていた。

滅び行く日常に膿んでいる自分が触れていても、なお清らかさを失わない彼の姿が、その都合のいい思い込みを一層強めていた。

 

 しかし、友雅は殆ど彼の事を知らない。

 知っているのは彼自身が名乗った名前だけ。

 それももしかしたら、本当の名前ではないかもしれない。

 そんな想像を自然にさせてしまうほど、彼は自分のことについて語らなかった。

 また、自分のことを語らないことと同じように、友雅のことを詮索することもない。

 つまりは、自分たちはお互いのことを殆ど知らないままでいるのだ。

 しかし、それは自分たち、いや、自分にとって、かもしれないが、瑣末なことだ。

 重要なのは過去ではなく、今二人が共にある、ということ。

 

「…結局は逃げているだけなのかもしれないな」

 

 「今」を大事にしたいが為に、それを壊す恐れのある相手の、或いは自分の「過去」に触れないようにしている。

 眠る彼の艶やかな髪を優しく撫でながら、自嘲気味に呟く。

 

 それでも。

 

 この日々がずっと続けばいいと願う。

 それが、叶わぬ願いであることを半ば予想しながら。

 

 

 そうして。

 

 

 別れは突然に訪れた。


to be continued
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