藤影の君

 

微かな香りが目の前を過ぎる。

 

これは、花の香りか?

 

早朝の澄んだ空気の中、その香りは夢の名残のように緩やかに心に纏いつく。

今は、自らが仕える左大臣家の警護も兼ねた界隈の早朝見回りの最中だ。

しかし、何よりも役目を重んじる彼にしては珍しく、頼久はその香に誘われるまま、方向を変えて歩み出す。

 

辿り着いたのは、とある邸。

それほど大きな造りではないが、落ち着いた雰囲気の邸だ。

しかし、邸を囲む築地の一角が壊れたままになっており、中の庭の様子が窺えた。

無礼だとは思いつつ、その邸の庭から漂う花の香りが気になって、つい中を覗いてしまう。

 

その邸に似つかわしい大きさの庭の片隅に、藤棚があった。

今が盛りと咲き誇る紫の花々が、その房を僅かな風に揺らしながら、あの香りを振り撒いていた。

 

そして。

咲き乱れる藤の影に隠れるように佇む華奢な人影に、頼久の視線は吸い寄せられた。

恐らく、起きたばかりなのだろう、そのひとは白い単に、藤色の袿をゆったりと羽織っている。

袿の上からでもその細さが分かる肩や背に、目にも鮮やかな翠色の髪が、滝のように流れ落ちている。

朝日に煌く髪に縁取られた白い美貌は、その髪色に負けず劣らず稀有なもので、いつの間にか、

頼久は息さえするのも忘れて藤影の佳人に見入っていた。

 

なんと、美しい姫君であることか。

 

無粋な己でも、分かる。

これほどの美姫は、京中、いや国中の何処を探しても、他にいないだろう。

 

白い頬に濃い影を落とす長い睫や、艶やかに輝く柔らかそうな唇は、誘うような色香を醸しているのに、

眩しいほど白い肌や、どこか幼げな光を宿す大きな瞳の澄み切った様が、

この姫君の印象を無垢で清らかなものにしている。

 

まるで、藤の花精のようだ。

 

ひたすら見惚れる頼久の視線には一向に気付かぬ様子で、姫君はす、と白い手を伸ばした。

棚から零れんばかりに咲き乱れる紫の花房にそっと細い指先で触れ、次いでその形を確かめるように、

白い手の中に花房を包み込む。

次いで、長い睫を伏せて、捧げ持った花房に自らの滑らかな頬を寄せ、紅い唇を寄せた。

その香りを楽しむかのように、柔らかな唇が僅かに綻んだ……

 

それを認めた瞬間。

頼久は、己の胸の鼓動が早くなり、頬が熱くなるのを意識した。

 

すると、彼の反応に呼応するかのように、ふいに姫君が閉じていた瞳を開いた。

清らかな朝の光に正面から露わになった姫君の瞳は、片方が翡翠、

もう片方が琥珀というこれまた稀有な宝石の輝きを宿していた。

 

目が合ったか?

 

それならば、すぐに覗き見た己の無礼を詫びて、ここから立ち去らなければ。

そう思うのに、凍りついたように頼久の身体は全く動かず、声を出すことも出来ない。

姫君の麗しさに打たれて、まさに、身も心もその自由を奪われてしまっていたのだ。

 

しかし、目が合ったと思われた姫君は、少しも表情を動かさなかった。

先程の淡くあえかな笑みは幻だったのか、今、その澄んだ美貌には何の感情の色も窺えない。

頼久が見えていないかのように、そっと花房から手を離し、平然と身を翻す。

姫君にしては颯爽とした足取りで、邸内へと去っていく華奢な後ろ姿を、

頼久は少し呆然として見送ることしか出来なかった。

 

己の姿に気付かなかったのだろうか?

 

安堵とも落胆ともつかない思いが湧き上がる。

しかし、そう感じたところで、今のところ出来ることは何もない。

それを聞く者がいれば、すぐに恋患いと分かるような切ない溜息を一つ吐いてから、

夢の名残を惜しみつつ、頼久は見回りの続きへと戻っていった。

 

頼久が垣間見た藤影の君。

 

そのひとがいた邸が稀代の陰陽師、安倍晴明のものであったこと、かの君が姫君ではなく、

何とも驚くべきことに青年…しかも、

晴明の将来有望な愛弟子の陰陽師であることを彼が知るのはもう少し先の話である。

 


「姫泰同盟」(サイトトップから繋いでおります♪)、完成お祝い+加盟記念作品です!
同盟主催の樺楼様への感謝も込めて、久々のよりやすにしてみました♪
しかし、メインは我らが姫!のやっすんなので、頼久は目立っておりません(苦笑)。
頼久、姫君と間違えてやっすんに一目惚れ♪というだけのお話…
うう、たいした話でなくてすみません……(汗)
藤の花に頬を寄せるやっすんの姿を、ちょっぴり艶っぽくしたかったのですが…失敗気味です(落胆)。
あ…やっすんの顔の呪いのことについて書くのを忘れた…っ!(大汗)
二人の間には距離があったので、頼久にはやっすんの呪いは見えなかったと言うことで一つ、宜しくお願いいたします…(苦)

お祝いには不充分過ぎる代物ですが、気合と愛だけはこもっております故!!(苦笑)
とにもかくにも、「姫泰同盟」完成おめで有難うなのです!!!

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