蝶 〜夢遊み〜 夕陽が山の端を紅く染めていく。 京の外れにある小さな森。 泰明はそこへ一人足を踏み入れる。 ここへ到る道筋でも擦れ違う人はまばらで、この森の中に到っては人の気配すらない。 が、それも当たり前のこと。 黄昏時は一日の中で最も異界への入口に接することの多い時間。 京の人間ならばこの時間に好んで外を出歩く筈もない。 また、だからこそ泰明はこの黄昏時を選んで外へ出たのだ。 泰明は陰陽師だ。 だから、接した異界の入口からどのようなものが現れようとどうということもない。 何かを恐れるという感情は持ち合わせていない。 邪悪なものであれば祓うだけだ。 それに、己ほど異質で、気味の悪い存在もおるまい。 ふと考える。 黄昏時に現れるという異界への入口。 神子たちが元居た世界に通じる入口と繋がることもあるのだろうか。 異世界から来たという神子と地の朱雀である詩紋、そして、天真の。 そこはどのような世界なのだろう。 しかし、神子たちにはまだ、やることがある。 例えその入口を見つけたからとて、送り出す訳にはいかないのだ。 木々の葉を染めながら差し込む光の眩しさに一瞬目を細める。 泰明は黄昏時を選んで、この森をたびたび訪れる。 青々と葉を茂らせた森の中は、もう既に薄い闇に包まれていた。 重なり合う葉の合間を縫って差し込む陽光が、緑の下草をまだらに染める。 泰明は傍らの大きな木の根元に腰を下ろした。 静かに息を吸い、吐く。 己の気が森の空気に馴染んでいくのが分かる。 こういう状態を「落ち着く」というのだろうか。 人工物であるはずの己が、このような自然の中でこそ「落ち着き」を得られるのが不思議だった。 昼日中の京においては、様々な人の気配に囲まれ、このような「落ち着き」を得ることは叶わない。 「ひと」の傍で落ち着くことはできない。 それはやはり、己が「ひと」ではないからなのか。 いつもの思考に至ろうとしていた泰明はふと、目前の空間を見据える。 この森で得られる「落ち着き」を、違う場所で得ることがある。 それはいつもある「ひと」の傍だった。 しかし、その者の放つ気は、この森を包む静かな気とは似ても似つかない。 逆に「ひと」の中においてさえ、騒がしいくらいだ。 ほかの「ひと」に比べてたやすく乱れ、安定した状態にあっても強く、激しい。 それなのにどんな「ひと」の傍にいるときよりも、落ち着いていられるのだ。 何故か。 彼が八葉だからか。 いや、八葉は他にもいる。 異世界から来た人間だからか。 いや、異世界から来た人間は他にもいる。 最近になってよく抱くようになった疑問。 この問題を考えると、泰明はいつもその答えに行き詰まる。 細い眉が僅かに、ほんの僅かに顰められる。 しかし、その表情の変化に泰明は気付かない。 ほんの僅かな表情の変化が、冷たい美貌を和らげ、彼を「ひと」らしく見せていることにも当然気付かない。 暫し考え込んだ泰明は結局いつものように、それまでの彼にとっては全く珍しい対処法ではあったが、考えることを放棄した。 懐から呪符を取り出す。 目前にかざし、低いが、澄んだ声で呪を唱える。 呪符が淡く光を放ち始めた。 途切れなく呪を紡ぎながら、呪符を持った細い手首を翻す。 その白い指先から解き放たれるように、一瞬にして呪符が一匹の蝶へと姿を変えた。 夕暮れ近い森の薄闇の中で、蝶の鮮やかな色が映える。 それはひらりひらりと泰明の目の前を舞う。 なよやかな羽ばたき。 泰明は蝶を凝視する。 淡く色付いた唇は、変わらず呪の詠唱を続ける。 蝶は淡い燐光を放っているかのように、薄闇の中に鮮やかに浮び上がる。 ふいに視界から蝶の姿が消えた。 呪を唱える己の声も聞こえなくなった。 代わりに意識が高く、高く舞い上がる。 泰明の意識は人の器から呪符より生まれた蝶へと移され、さらに高い場所へと昇っていく。 森の木々よりも高く、空よりも高く。 人の形から解放された意識は、より高い場所で自由に拡散しようとする。
この状態を何と呼ぶべきか。 師はこの状態を眠りの中で訪れる夢に近いものではないかと言った。 人は眠りの度に、このように意識を己の身体から解き放つことができるのか。 人ではない己は夢を見ない。 だからこうして故意に意識を身体から切り離す方法でしかその状態を得ることが叶わない。 そんな泰明に師はまた、あまりこの術を頻繁に使うな、とも言った。 いつか、魂(不可解なことに師は己の意識のことをそう呼んだ)が身体に戻って来ることができなくなる可能性があるから、と。 泰明にはそれがさして問題があることとは考えられなかった。 いや、八葉の勤めを果たすためには問題があるのか………
「…泰明……!」 切羽詰った響きを持つ誰かの声に、ふいに泰明は意識を引き戻される。 唇に暖かい感触。 泰明の意識を運んだ蝶は、泰明が意識を取り戻すと同時に闇に溶け込むように消えていた。 その姿は元の呪符に戻ったことだろう。 目を開くと目の前に明るい髪をした少年がいた。 唇に微かに触れたのはその少年の指先。 天真だ。 泰明と同じ八葉。 地の青龍。 傍にいると落ち着く…… 彼は発した声と同じ切羽詰った表情で蝶の消えた先を見詰めていた。 「何をしている」 泰明は胸に抱いた疑問をそのまま口にする。 突然近くで発せられた声に、驚いたように天真は目を開いた泰明を見下ろした。 泰明は色違いの瞳でじっと天真を見詰めたが、天真はその問いに応えなかった。 蝶の消えた闇を再び見遣り、泰明へと視線を戻す。 先程の天真の声と表情。 ゆっくりと身を起こしながら、泰明は澄んだ瞳で天真を見詰めたまま、僅かに首を傾げるようにして、次の疑問を口にする。 「何を焦っている?」 天真はその質問にやっと応えた。 「……何でもねぇよ」 応えが得られた。 胸が少し暖かくなる。
「お前こそ何をしてたんだよ」 問い返された泰明は、どう言ったものかと暫し考える。 「……眠っていた」 天真の問いに泰明は立ち上がってから応える。 正確には違うのだが、あの状態を表す簡潔な言葉が見付からない。 そんな泰明の態度をどう受け取ったものか。 天真は機嫌を損ねたかのように、乱暴な口調で言う。 「こんなところで寝て、風邪引いても知らねえぞ」 彼を包む気は口調ほど荒々しくはないが、やや乱れている。 天真の言葉に泰明は条件反射のように応える。 「風邪など引かない」 己は人ではないから。 「ああ、そーかよ」 天真は泰明に背を向ける。 苛立たしげに髪を掻き揚げる。 胸が今度は少し寒くなった。 「天真、お前は何をしていた?」 泰明は先程応えを得られなかった質問をもう一度繰り返す。 「別に。ただの散歩だ。全く一人になりたくて出てきたってのに……」 苛立ちも露わに問いに答えた天真の背中を泰明は見詰める。 応えが得られた。
ゆっくりと瞬きをする。 一瞬間を置いてから柔らかく唇を開いた。 「……そうか」 泰明に背を向けている天真が、軽く舌打ちする音が聞こえた。 天真はやはり、やや機嫌を損ねているようだ。 己の所為だろうか。 泰明はその理由を考える。 二人の間にしばし、沈黙が落ちる。 「邸へ戻る」 唐突に泰明は沈黙を破った。 考えたが、理由は分からなかった。 だから、それしか言えなかった。 天真が苦い溜息を吐く。 「俺も戻るわ。これ以上ここに居ても無駄だし」 そう言って泰明に背を向けたまま歩き出した。 その天真のあとを泰明が付いていくような形になる。 徐々に天真の気が穏やかに落ち着いていくのが分かった。 理由は分からない。 ただ、先程よりずっと胸が暖かくなった。 泰明は無意識に己の唇に指を持っていく。 先程彼が僅かに触れた…… 同時に耳に蘇るのは、泰明を現世へと引き戻した天真の声。 泰明の白く細い指先が冷えていた所為なのか。 触れた唇は常よりも温かかった。 今のこの胸のように…… ………暖かかった。 |
……訳ワカリマセンネ(外国人調で)。 前作で天真が抱いた不安は当たらずも遠からず。 やっすん、ホントに魂飛ばしてました……というオチ(す、すみません…)。 レリーズ(封印解除/by CCさ○ら)前のやっすんを書こうと思ったこと自体が失敗でしたかね? …一応両思いにしてみました。わかりにくいですけど(苦笑)。 葉柳の勝手な思い込みですが、やっすんの恋人になれる条件は、一緒にいて「落ち着ける」ことが一番にあると思うのです。 少しはやっすんを可愛くしようと努力してみましたが…失敗気味? まだ恋人未満な二人。 しかし、どうやらやっすんは、自分が投げ掛ける疑問に対して天真が何らかの反応を返してくれるだけで嬉しいみたいです。 ………なんだ、そう考えるとやっすん可愛いじゃないか(そうか?)。 ちなみに前作と今作の副題、「魂離れ(たまがれ)」と「夢遊み(ゆめずさみ)」は葉柳の造語です。 実際こんな言葉はないかと思いますが、雰囲気で押し切ってみました(笑)。 とにもかくにも!ここまで読んでくださった方、おりましたら有難う御座います!! んで、そんなありがた〜い方々にお知らせです。 この「蝶〜夢遊み〜」を前作「蝶〜魂離れ〜」とセットでフリーとさせて頂きます! 果たしてこんなくどくてぬるい作品を欲しいと言って下さる方がいるのかどうか、甚だ疑問ではありますが……(汗×100) いや、大部分の方がいらないと思いますが……… どちらか一方のお持ち帰りでも、全く問題ないです。 読んで頂いたお礼にもならない(冷汗)これらの作品を貰ってやるぞ、と言う心優しい方おりましたら掲示板に一言下さいませ。 もう、煮るなり焼くなり放り捨てるなり(??)好きにしてやって下さい。 本文内容以外は加工もOKです(いや、むしろその方が宜しいかと…)。 目次へ 天真サイドへ