Blue 〜angel〜
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異変が起こったのは、その日の深夜だった。
アパートの一階の部屋に住まう家族が、通りを過ぎる複数の固い足音に眠りを妨げられた。
このアパートは壁が薄いので、外の物音がよく聞こえる。
しかし、街の誰もが寝静まるこの時間に、複数の人間が駆け回るなど尋常ではない。
恐らくこの通り沿いに住まう家の者もこの騒ぎに目を覚ましただろう。
何よりも、その数多くの足音の殺気だった響きに、こどもが不安そうな顔をして、傍らの父親の服の袖を掴む。
「大丈夫、大丈夫だよ」
優しく宥めながら、男は片手で子供の小さな身体を抱き寄せ、もう片方の手で不安そうに寄り添ってきた妻の肩を抱いた。
あの足音の行き先は我が家ではない。
ならば、この家の中にいれば、大丈夫だ。
この後、どんなことが起ころうとも、目を塞ぎ、耳を塞いでおけばいい。
彼ら家族がこの街で暮らしていく為にはそうするしかない。
妻と子供を促して、男は再び身を横たえる。
この街に住む者は皆、そうだった。
部屋の中、家族で身を寄せ合って息を潜めて。
この後起きた更なる騒ぎに、寝入ることが出来なくなってさえ、
誰一人外へ出て、事態を確認しようとする者はいなかった……
真夜中の通りを慌しく過ぎる集団は、一様に闇に紛れる黒服を身に纏い、
同じく黒のグラスで顔を隠している。
一見すると、夜盗の類のようだが、その統率の取れた動きは、ただの夜盗が持ちうるものではない。
もっと厳しい規律の上に成り立つ集団の動きだ。
そのことを示すように、先頭を歩む男の襟元、将校を示す徽章が朧な月光を弾いた。
足音が止まったのは、ビルに挟まれた三階建ての細長い家である。
将校は中の様子を確かめることはしなかった。
すぐさま部下に合図をし、黒服の集団は手に手に拳銃や機関銃を携えて、戸口に突進する。
ドアを蹴破り、半数は階段へと殺到し、残った半数は侵入すると同時に銃を乱射した。
嵐のように鳴り響く銃声の中で、硝子や陶器が砕かれる音が混じる。
二階三階へ侵入した者たちも、同じように部屋の扉を蹴破ると同時に、銃を乱射した。
上の階に侵入した者たちが戻ってきたところで、玄関口に立ち止まっていた将校が、す、と手を上げる。
銃声が止み、将校の合図で部屋の灯りが付けられた。
こうしてあらゆる場所に銃弾の雨を降らせられては、部屋の住人もひとたまりもない筈だ。
そこには砕かれた家具と共に、全身を穴だらけにされた遺骸が転がっているだろう。
しかし。
明るくなった室内の何処を見渡しても、標的(ターゲット)の遺骸は見付からなかった。
上の階か。
将校が指示を下す前に、上の階を確認した部下が戻ってくる。
「二階、三階と全ての部屋を見て回りましたが、遺骸はありませんでした」
「何」
将校が険しい表情となり、部下たちも再び警戒態勢となる。
注意深く、滅茶苦茶にされた室内をもう一度見渡すが、そこには静寂があるばかりで、ひとの気配さえ感じ取れなかった。
「…逃げたのでしょうか」
「その可能性はある。相手は三人だ。ここに半数を残して、あとの半数は通りを…」
将校の指示は途中で途切れた。
微かな音と同時に、将校の身体がゆっくりと傾いだ。
「将校!」
頭から血を流して床に沈み込んだ将校は、既に息をしていなかった。
残された部下たちはあまりにも一瞬の出来事に驚愕したが、訓練された軍人らしく、瞬時に立ち直り、銃を構え直した。
皆一様に息を潜めて、銃弾の出所を探るが、気配が掴めない。
このままでは、標的を逃がしてしまうことになる。
彼らは数に頼み、手当たり次第に屋内を探し回り始めた。
その殺気だった喧噪に紛れて、黒い人影が最上階の一部屋の窓からひらりと屋根へと移動する。
痕跡を残さぬよう、予め取っ手に仕掛けておいた細い紐を上から引いて、出てきた窓を閉める。
屋根の上には既に、天真と泰明が待っていた。
「すごいな、あんた。あの状況下で一発で指揮官を仕留めるなんてさ。あんた、狙撃手(スナイパー)かなんかか?」
先程の鮮やかな手際に感心したように言う天真に、友雅は僅かな笑みを返す。
その手には消音器(サイレンサー)付きの拳銃が握られていた。
「まあ、似たようなものだね。昔の話だが。まだ、腕が鈍っていなくて良かったよ」
襲撃の直前、いち早く不穏な気配を察した泰明のお蔭で、三人は難を逃れていた。
その居所は違ったが、軍内で共に暗殺という特殊な仕事を請け負っていた友雅と泰明は、標準以上に夜目が利く。
だからこそ、灯りのない闇の中でも雨のように降る銃弾を苦もなく躱し、
逆に相手の隙を突いて、集団を率いる将校を倒すことができたのだ。
友雅と天真をこの屋根まで導いた泰明は、表通りからは見えない位置に立って、周囲の状況を見極めている。
「こちらから行こう。飛び移る場所がこの屋根より高いが…」
「ああ、これくらいなら大丈夫さ」
明るく請合う天真に目を向けて、泰明は申し訳なさそうに細い眉を寄せる。
「彼らは私たちを狙ってやってきたのだ。すまない。やはり、お前を巻き込んでしまった」
「いいさ。さあ、話は後だ。追っ手に見付かる前にさっさとずらかろうぜ」
細い肩を軽く叩いて、天真は一足先に隣のビルの屋上へと飛び移った。
友雅の腕も一瞬泰明の肩を引き寄せ、宥めるように優しく撫でた。
それに顔を上げて頷きを返し、泰明は天真に続いて隣のビルに移った。
「おっと。大丈夫か?」
「問題ない」
少し体勢を崩した身体を天真に抱き止められ、気遣いの言葉に応える間に、友雅もこちら側に移ってきた。
「行くぞ」
休む間もなく走り出す泰明の様子に、友雅は少しだけ気遣わしげに眉を寄せる。
一見泰明の動きはいつもと変わりないように見えるが、ふとした一瞬に隙ができる。
それが夕の一件の所為なのか、それとも、袖や裾を折り返して着ている借り物の服の所為なのかは分からないが。
泰明のことだから恐らく大丈夫だろうが、気を付けておくに越したことはない。
ビルの屋根伝いに走り続けて、そのまま通りに沿っていけば街から出られるという大通りに辿り着いたときだ。
「…っ!」
高い銃声が響き、泰明の足元のコンクリートが砕けた。
泰明は、すかさず、腰に下げた銃を引き抜き、正確に撃ち返す。
友雅と天真も銃を構えて、泰明の背後に立った。
泰明に向けて最初に銃を放った男は倒れたが、それを合図に、大通りに続々と黒服の集団が現れ、通りに佇む泰明らに銃口を向けた。
彼らは否応なくこの場で徐々にこちらを囲い込もうとする男たちと銃撃戦を演じることとなった。
敵に背後を取られぬよう、三人常に背中合わせの立ち位置を確保しながら、
殆どの敵が銃口の照準を合わせる前に、銃を弾き飛ばし、或いはそれを持つ腕、肩を狙う。
それを全速力に近い速さで移動しながら行う。
既に幾つかこういった修羅場を潜り抜けてきた友雅と泰明にとっては慣れた戦法だったが、
恐らく初めてこうした戦いを経験する天真も彼らに遅れることなく付いて来ていた。
その順応性、反射神経の確かさに、緊急事態の最中ではあったが、友雅は内心感嘆する。
もしや、彼ならば有力な同志となりうるか。
一方、休むことなく銃の引き金を引き続けながら、
泰明は素早く視線を動かして突破口を探すが、横道は既に軍に抑えられていた。
何よりも、追っ手の数が多過ぎる。
今のところは、一進一退の攻防を続けてはいるが、しかし…
その内心の危惧は現実のものとなり、最初に泰明の銃の弾が尽きた。
「…!」
「泰明!」
隙を狙う男の銃を友雅が防ぐが、こちらもいつ弾が尽きるか分からない。
「くそっ…!」
すると、泰明の前方に回って銃を放っていた天真が、舌打ちをして罵声を放った。
天真の銃の弾も尽きたらしい。
膠着状態が崩れて、こちらが一気に形勢不利となる。
そのとき、泰明の鋭い目が突破口を捉えた。
「あちらだ!」
勢いを得て押し寄せてくる敵を友雅が牽制しながら、三人は泰明の細い指先が示す方向へ向かってひたすら走った。
何とか建物の蔭に一時的に身を隠すことが出来たときには、流石に三人ともが息を切らしていた。
しかし、状況は厳しかった。
「残りは何人だ?」
「半分は片付けたが…」
「まだ、三十はいるぜ」
慌しく空になった弾倉に少ない弾を篭めなおしながら、囁き交わす彼らの表情も厳しい。
だが、ここを突破するしか道はないのは確かだ。
こちらに徐々に近付いてくる敵の気配。
「…もしかして、これが絶体絶命ってやつか?」
額に流れる血の混じった汗を拭いつつ、天真が冗談めかして囁く。
友雅と泰明は無言で銃を構えた。
そのとき。
通りの向こうから、車が土埃を巻き上げながら突っ込んできた。
一台ではない。
全部で五台。
皆軍用車だ。
増援が来たのか。
ここで命運が尽きたかと、泰明は一瞬唇を噛み締めた。
ところが、車は彼らの方ではなく、彼らを追い詰めようとしていた集団へと突っ込んでいった。
集団が崩れて四方に散り、やはり、自分たちの増援だと思っていたのであろう軍人たちの悲鳴と驚きの声が上がる。
頑丈な車は、撃ち込まれる銃弾を悉く防ぎ、黒服の男たちを蹴散らしていく。
その混乱と喧噪を抜けて、一台の車が泰明たちの前に止まった。
扉が開く。
「どうぞ、お乗りください」
涼しげだが内面の誠実さを表した声に、泰明がはっと目を見開く。
「頼久…!」
頼久は驚いている泰明に微笑み、彼の背後に立つ友雅に軽く会釈をする。
友雅は突如現れた救い主に驚かなかった。
まるで予想していたかのように微笑みを返す。
「いいタイミングだね」
それに小さく笑ってから、頼久は表情を引き締めた。
「さあ、お早く。私の部下たちが敵の注意をひきつけている間に」
言いながら、泰明に向かって腕を伸ばす。
「御無礼を」
「より…っ?!」
その細い身体を抱き込むようにして車の中に引き入れた。
遅れず友雅と天真が車の後部座席に乗り込むと同時に、車は発進した。
事態に気付いた数人かが何事かをわめきながら撃ってくるが、車は彼らを弾き飛ばすようにして通りを疾走する。
敵を混乱に陥れていた頼久の部下の車も撤退を始め、頼久の車の後に続いた。
そうして、最後尾となった車の窓が少し開き、追い縋る集団の真中へ向かって何か黒い物体を投げ付けた。
手榴弾だ。
先頭の車の助手席に座らされた泰明が背後を振り向いたとき。
通りの暗がりに閃光が走り、爆音と共に紅い炎が立ち上がった。
やっすんたち危機一髪。 そして、頼久とその忠実な部下たち(元「疾風(Hayate)」隊員)が意外に早く(笑)合流です。 これで、今まで登場していた姫やっすんを守る(?)三人の騎士が揃いました! さあ、寄って集ってやっすんをちやほやするがいい!!←シリアス展開をぶち壊す下らんコメント。 次回はエピローグでっす(シリーズはまだ、続きますよ/笑)。 top back