雨宿り 前編 激しい雨音が、屋根を叩く。 「参ったな…」 「本日定休日」の張り紙がシャッターに張られた店の軒先で、泰明は溜息をつく。 水の入った桶をひっくり返したような雨は、一向に止むことはなく、弱まる気配すらない。 注文した本を取りに近所の本屋へ行った帰りのことだ。 急な雨に降られて、泰明は慌ててこの店の軒先へと駆け込んだのだった。 本を買った後、すぐに帰るつもりだった泰明は、傘を持ってはいなかった。 常ならば、ずぶ濡れになろうとも気にせずに家へと戻るところだが、 今は買ったばかりの大事な本がある。 己は濡れても構わないが、この本は濡らす訳にはいかない。 仕方なくこの雨が止むか、弱まるまでこの軒先で雨宿りをしていたのだが…… 地面と屋根を叩く雨音の違いに耳を傾けて約10分。 雨の帳に霞む通りの景色を眺めて更に約10分。 更にまた10分程が経ち、全く弱まる気配さえ見せない雨に、 流石に泰明も雨宿りを楽しんでばかりではいられなくなってきた。 夕方になってもこの雨は降り続くのだろうか。 そのとき、通りに溜まった水をバシャバシャと跳ね上げながら、 背の高い少年が泰明の居る店の軒先へと駆け込んできた。 ジャケットを頭の上から被っていた少年は、 辿り付いた軒先でやっと俯いていた顔を上げる。 明るい色の髪先から雫が滴る。 それが見知った少年であることに泰明が気付くのと、 少年が泰明の姿を認めるのとはほぼ同時だった。 「天真」 「泰明」 二人また同時に互いの名を呼ぶ。 「何だ、泰明も雨宿りか?」 「そうだ」 明るい雰囲気の中にも何処か、狼のような鋭さを漂わせる少年は、 大きく首を振って髪に纏わり付く水滴を振り払おうとする。 その雫が幾つか飛んできて、泰明は思わず本が濡れないよう腕に抱え込みながら、 身体を反らしてしまう。 「あ、悪い」 天真はそんな泰明の様子にすぐに気付いて頭を振るのを止めた。 「凄い雨だな」 「…ああ」 応える泰明の声に何処か困ったような響きを感じ取り、天真は傍らの麗人を見遣る。 「お前、ここでどのくらい雨宿りしてた?」 「30分くらいだ」 「誰かに迎えに来させりゃ良いのに」 例えば友雅辺りとか。 そう言うと、 「友雅は仕事だ」 と、応えが返ってきた。 「ああ、そういえば今日は平日だったな」 天真は肩を竦める。 そうして、泰明の人形のように整った綺麗な顔の中で、 細い眉だけが困り果てた心情を映して僅かに寄せられているのを見遣る。 「わ!」 突然バサリと、水気を払ったばかりのジャケットを頭から被せられ、泰明は驚く。 「天真?」 怪訝そうな泰明に、しっかりとジャケットを被らせつつ、 天真は一つ通りの向こうに見える泰明の住むマンションを見る。 「泰明。その本が濡れないようにしっかり抱えてろよ」 天真はまだよく分かっていない泰明の華奢な身体を強引に引き寄せた。 「てん…!」 「走るぞ」 戸惑う泰明を余所に、 天真はジャケットを被せた細い身体を自分の身体で包むようにしながら、 雨の中へ飛び出した。 雨はまだ止まない。 天真は広いリビングのソファに座ったまま、窓外を見ていた。 短い距離とはいえ、 泰明があまり濡れないよう己の身体全体で激しい雨から守っていた天真は、 彼を部屋へと送り届けた時には、ずぶ濡れとなっていた。 それでも、そのまま帰ろうとした天真を泰明が引き止め、部屋へと上げた。 泰明の熱心な勧めに負けて、天真はシャワーを借り、 乾燥機にかけた服が乾くまで、泰明の部屋にいることになった。 テーブルの上には、泰明の入れた紅茶がある。 その泰明はといえば、シャワーを浴びている。 先程、目の前で泰明に盛大なくしゃみをされた天真が、 無理矢理に近い形で浴室に追いやったのだ。 この激しい雨だ。 幾ら天真が庇ったと雖も、泰明も多少は濡れたのだろう。 泰明はお客(天真)を一人にする訳にはいかないと渋ったが、 結局天真に押し切られた形となった。 紅茶を口に運びつつ、天真はふと気付く。 今まで、泰明の部屋に遊びに来たことはあったが、こうして一人で来たのは初めてだ。 たいてい、複数の仲間と共に遊びに来ていた。 たまに、二人きりになるのを狙って、一人で泰明の部屋に行ってみると、 友雅がいたりする。 …友雅か。 恋敵の姿が脳裏に過ぎり、天真は少々面白くない気分になる。 実は今、天真が借りている服は友雅のものだったりする。 ときどき、友雅は泊まっていくことがあるから、 何着か置いてあるのだと泰明は平然と言っていたが…… 更に、普段の冷静沈着振りからは想像も付かない無邪気な感情を、 友雅の前で露にする泰明の様子を鑑みるに、 この二人の仲は相当に親密なものだと判断せざるを得ない。 なまじの男なら入り込む余地無し、と諦めるところである。 しかし、天真は違った。 この二人、親密であることは確かなのだろうが、 その親密さが恋人同士としてのものかどうか疑わしいところがある。 もちろん、友雅は泰明を恋人として見ているだろう。 しかし、泰明の態度は恋人に対するものにしては、無防備過ぎる。 ……どうも友雅を家族のように捉えているように見えるのだ。 そこのところに、恐らく泰明にとって単なる友人の一人である自分にも 入り込む余地があると天真は踏んでいる。 そして今。 天真は一人で想い人の部屋におり、恋敵は仕事でここにはいない。 願ってもないチャンス到来である。 同時に歯止めが利かなくなるのではないかという不安も覚えるのだが。 と、泰明が浴室から出てきた。 「天真」 澄んだ声に引き寄せられるように顔を上げれば、目前に 更に引き寄せられてしまいそうな姿の泰明がいる。 湯を浴びて火照った身体に薄いシャツを纏い、その下に隠された華奢な肩や背中を、 水気を含んだ艶やかな翠の髪が、しっとりと覆っている。 そんな婀娜めいた己の姿に頓着せず、泰明は躊躇わずに天真の傍らに腰掛けた。 「有難う、天真」 テーブルの端に置かれた本を見遣ってから、天真を見詰める。 「…何だよ。その言葉はさっきも聞いたぜ」 泰明の無意識の色香にやや動揺しつつ、天真は技と素っ気無い言葉を返す。 「先程の礼は、私を濡れないように庇ってくれたことへの礼だ。 今の礼は本を濡れないよう守ってくれたことへの礼だ。 これは大事な本だから、私のこととは別に礼を言わなければならないと思った」 そう言って、僅かに美しい目元を綻ばせる。 「有難う」 目尻がほんのりと淡く染まっているのは、湯上りの所為なのか。 僅かな表情の変化が、却ってその艶っぽさを強調する。 天真は眩暈を覚えた。 早くも歯止めが利かなくなった自分を意識しながら、傍らの細い身体を抱き締める。 「天真!どうしたのだ?」 突然のことに、泰明は声を上げる。 戸惑う泰明に構わず、天真はその細い身体を抱き締める腕に一層力を込める。 その白く細い首筋に顔を埋める。 項から香るのは石鹸の匂いなのだろうか、それとも泰明自身の香りなのだろうか。 甘い花のような香りに酔ってしまいそうになる。 「…寒いのか?」 こちらを気遣う響きを帯びた声に顔を伏せたまま応える。 「ん〜、少し」 「風邪でも引いたのか?」 天真の応えに慌てて熱を測ろうと、身を離そうとする泰明の動きを封じて、天真は笑う。 「寒いのは風邪の所為じゃねえよ」 「?では一体?」 不思議そうな泰明の問いにやっと天真は顔を上げ、 額がくっつきそうな距離で澄んだ瞳と視線を合わせ、にやりと笑う。 「泰明が協力してくれれば、寒くなくなるぜ」 答えはその後でな。 そう言うと、泰明は何の疑いもなく、 「分かった。どうすればいい?」 と、訊いて来る。 そのあまりの無防備さに、 やはり友雅とは恋人未満の関係であることを天真は確信する。 ならば、遠慮は不要と言うもの。 「じゃあ、目、瞑ってな」 素直に目を閉じた泰明へとゆっくりと顔を近付ける。 間近で見ても、非の打ち所のない泰明の美貌に見惚れつつ、 ややふっくらとした柔らかそうな唇に触れようとする。 その途端、部屋に響いたのはインターフォンの音。 不意を突かれて、天真は思わず身を引き、泰明はぱっちりと瞳を開く。 「誰か来た」 「ああ、行って来いよ」 いいところを邪魔された内心の悔しさを余所に、快活に微笑む天真に微笑み返し、 泰明は天真の腕の中から出る。 泰明はインターフォンの画面越しに新たな来客の姿を確認する。 「友雅か。今開ける」 簡単な受け応えをした後、リビングを出て行く泰明の背後で天真が舌打ちをしたのに、 泰明は気付かなかった。 「今日は早いのだな」 「ああ、久し振りに早く仕事が切り上がってね…」 扉を開けた泰明に、土産のケーキと紫陽花の花束を掲げて見せつつ、 扉の内へ入ろうとした友雅は一旦言葉を切る。 無言で素早く中へと入り、そのまま泰明を抱き締める。 「??友雅?」 訳の分からない泰明を余所に、友雅は苦笑混じりの溜息をつく。 「全く…なんて格好をしているんだい…」 「??」 「さっきまでシャワーに入っていたのかい?」 「そうだが…?」 やはり。 湯上りの泰明の艶っぽさは、かなり刺激的なものがある。 もちろん、友雅にとっては嬉しい目の保養だが、他の誰にも見せたくない姿でもある。 「そんな格好で私以外の来客を迎えては駄目だよ」 「何故だ?」 「あまりに目の毒だ」 分からないだろうとは思いつつ、正直なところを口にすると、 泰明は友雅の腕の中で少々考え、 「分かった。例え、己の家の中でもこの格好で客の相手をするのは失礼に当たるのだな」 と、少々ずれた自分なりの応えを導き出し、納得する。 しかし、今日はよく抱きつかれる日だ。 泰明は内心で呟く。 泰明の辿り着いた応えを敢えて訂正はせずに、 友雅は手にしたケーキの箱と花束を傍らの白い木製の靴箱の上にひとまず置き、 自らの身体で包むように、泰明の身体を抱き締めなおす。 泰明が納得してくれたのならそれでいい。 この姿を自分以外の男に見られてなるものか。 そう、特に天真には。 一瞬恋敵の姿が頭に浮かんだところで、 おとなしく友雅に抱かれていたままの泰明が問い掛ける。 「友雅も寒いのか?」 「……「友雅も」?」 泰明の言葉に不審を感じると同時に、 玄関に置かれた泰明のものにしては大きいスニーカーを発見する。 「……泰明。もしかして、天真が来ているのかい?」 思わず、抱き締めている腕が緩んでしまう。 それを解放の合図と受け取ったか、泰明はするりと友雅の腕の中から抜け出した。 「そうだ。友雅もこの雨の中、大変だっただろう。風邪を引かないうちに早く上がれ」 靴箱の上のケーキと花束を持ちながら、友雅を促して、泰明は軽やかに身を翻した。 |
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